2025年4月25日。
福知山線脱線事故から20年の節目に、尼崎では追悼の祈りが捧げられた。
あの日、107名の命が失われ、562名が重軽傷を負った。鉄道史に刻まれた痛ましい事故だ。
JR西日本の長谷川社長は「尊い命を奪ってしまった」と頭を下げた。
国交省も「安全・安心の確保に全力を挙げる」と誓った。
だけど――。
その言葉の“本質”に、私たちはもう一度立ち返る必要があるのではないか。
なぜ、日本ではルールが絶対視されるのか?
日本人は「規律を守る」「ルールに忠実」だと世界から称賛される。
だがその姿勢は、裏を返せば「自分で考えずに、他人が引いたレールの上を走る」ことではないか?
楽をしているだけとも言える。
この国では「赤信号、みんなで渡れば怖くない」が笑い話になる。
でも、世界ではそれは笑えない――“普通”の感覚だということにも着目したい。
みんなが居ようといまいと、進めそうなら赤信号でも進むのがグローバルスタンダードだ。
なぜルールを守るのか? 自分の頭で考えて、そう判断しているのか?
それとも「違反しないこと」そのものが目的になってはいないか?
事故の「原因」は、運転士ひとりに押しつけていいのか
福知山線の脱線事故、直接の原因は「速度超過」とされている。
けれども、運転士がミスをしない完璧な人間だったら事故は防げたのか?
あの日、乗務員には「時間の遅れを取り戻す」ことへの強烈なプレッシャーがあった。
遅延を許さない企業風土と、上司の目、乗客の不満――。
そうした「見えない圧力」が彼を追い詰め、カーブでの暴走につながった。
ならば問いたい。
本当に“ルール通り”だったら、命は守られたのか?
そのルール自体が「考える力」を奪ってはいなかったのか?
「安全神話」は、もうやめにしよう
新幹線は「死亡事故ゼロ」とよく言われる。だが三島事故を引合いに出すまでもなく、新幹線で事故は起き人は死んでいる。
「安全神話」なんて、まやかしであるだけでなく、その言葉自体が現場を硬直化させるだけのもはやパワハラワードではないか。
“安全”とは、ただの言葉じゃない。
人間が自律して、考え続けることでしか守れないものなんだ。
鉄道員は最初に安全を徹底して教わる。
安全のため最優先することは、とにかく電車を止めることだと教わる。
でも、東関東大震災のときは逆に停まったら津波に飲まれて危険だからと高台のトンネルまで走行した。
考える力というのは、こういうことではないかと思う。
これからの鉄道に求められるもの
日本の鉄道は、これまでも、そして今も、世界トップレベルの正確性と安全性を誇っている。
けれど、その実績の上にあぐらをかいて「ルールを守っていれば大丈夫」という思考停止に陥ってはいないだろうか。
これから必要なのは、「ルールに従う律儀な国民」ではなく、「ルールを考えられる個」としての自律だ。
再発防止は、形だけのマニュアルや標語ではなく、
現場のひとりひとりが「なぜ?」を持ち、問い続ける文化から生まれる。
それが出来ていたら、自らも死亡する大事故と日勤のどちらを取るか、冷静に判断できるだろう。
結びに
あの事故から20年。
JR西日本では世代交代が進み、事故を知らない社員も多くなったという。
でも、記憶を風化させてはならないのは、鉄道会社だけじゃない。
社会全体が、考え続ける義務がある。
次の20年、私たちは「ルールを守る日本人」から、「ルールを考え創る日本人」へと進化できるか?
鉄道がまた“人の命を乗せている”という当たり前の事実を、胸に刻みながら。