2/24
高松から直島へ。廃棄物処分場を見学。
夕方帰り、懇談会と懇親会。午前様で更新遅れ。
2/25
休日ゆっくり、考える。
「自由」という概念 藤原正彦さんの「国家の品格」より
------------------------------------------------------------------
いま自由を否定する人は世界中にいないでしょう。私は「自由という言葉は不要」と思っています。控えめに言っても、「自由」は積極的に賞揚すべき概念ではありません。
日本の中世においては、自由というのはしばしば「身勝手」と同じ意味で使われていました。『徒然草』においても、そのように使われていたと記憶しております。
自由が著しく制限されていた戦中への反動から、また自由を国是とするアメリカによる占領統治もあり、戦後はことあるごとに「自由」が強調されてきました。憲法や教育基本法をはじめ、さまざまな法律にも、基本的な人間の権利として書かれております。しかし結局、自由の強調は「身勝手の助長」にしかつながらなかった、と言えるのではないでしょうか。
この「自由」という名の化け物のおかけで、日本古来の道徳や、日本人が長年のあいだ培ってきた伝統的な形というものが、傷つけられてしまいました。
人間にはそもそも自由はありません。それは当たり前のことです。生まれ落ちた瞬間から人間に自由はない。あんなに厚い六法全書があり、法律が網の目のように張り巡らされています。法律の他にも道徳とか倫理というものまであります。さらにどんな組織にも規則があり、そこでは協調が強いられています。我々の行動や言論は全面的に規制されているのです。
どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい、廃棄した方が人類の幸福にとってよい、とさえ私には思えます。
権力を批判する自由さえ完全に確保されれば、他は制限されていい。そもそも、嫌な奴をぶん殴ったりする自由もないし、道端で立ち小便をする自由もない。私には諸般の事情から愛人と夢のような暮らしをする自由すらない。ほとんどの自由は廃棄するまでもなくあらかじめないか、著しく制限されているのです。欧米が作り上げた「フィクション」に過ぎません。
------------------------------------------------------------------
まだ、藤原氏の思想理解できているわけではありませんが一理あります。
日本国憲法
第13条
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
第97条
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
藤原氏は「公共の福祉」の範囲に反する自由は認められない、と言っていると解釈します。「公共の福祉」の定義があまり触れられていないのは自由が制限されてきたことによって生まれた憲法の歴史的背景でしょうか。しかし欧米が作り上げたのは民主主義とパブリック精神。これが「公共の福祉」であり、この精神もとに自由があることは世界の常識ではないか、と考えました。
先日亡くなった、茨木のり子 氏の詩を3つ。
死因は転倒による打撲。
日ごろから
もはやなにものにも倚りかかりたくない
と口にしており
よりかかりミスによるものと思われます。
突然の訃報に、親しかった人々は
自分の命くらい
自分で守れ
ばかものよ
と怒りながら鳴咽していたそうです。
-----------------------------------------------
「倚りかからず」
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは椅子の背もたれだけ
--------------------------------------------------------
人に迎合することは好きではありません。
「人に迷惑を掛けない」ことはもっとも人間社会においての基本的ルールであり
私の信条ですが、どうしても迷惑を掛けてしまうものです。
一方、人は一人では生きていけません。
私の所属する会の理事長は
「自然や人間のお付き合いは感謝の気持ちがなければならない」(かなり編集)
に類する意見をお持ちです。
迷惑を掛けるのも愛情であったりしますし
人間社会のもちつもたれつも有難い。
安易な迎合しないことと人の繋がりに触れる有難さは両立するものだと考えます。
茨城氏の詩にもあるように
人間は弱いもの
私自身、経営者そして人間としての未熟と努力の至らなさを認め、
自身の家庭の破綻を明からさまにすることにより
他山の石にしてもらえればいいのかな。
社会が良くなるために自分がよう良くなるべきか、変わるべきかを案じている次第。できあいの思想・宗教・学問・権威+歴史や世の中の具体的な事象から学び
唯物論的考察でもって自分自身のものにしていきたいな。
--------------------------------------------------------
「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
---------------------------------------------
これは、反論もありましょう。
---------------------------------------------
「鄙ぶりの唄」
それぞれの土から陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛された人々に永く歌いつがれてきた民謡がある
なぜ国歌などものものしく歌う必要がありましょう
おおかたは侵略の血で汚れ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って 起立して
直立不動で
歌わなければならないか
聞かねばならないか
私は立たない
坐っています
演奏なくてはさみしいときは 民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
ヴォルガの舟歌
アリラン峠
ブンガワンソロ
それぞれの山や河が薫りたち
野に風は渡ってゆくでしょう
それならいっしょにハモります
ちよいと出ました三角野郎が
八木節もいいな
やけのやんぱち鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで
----------------------------------------------------
昨年ニューヨークのヤンキースタジアムにて、松井が400号ホームランを打った日に私はいました。
試合開始前に観客が総立ちでアメリカ国歌を歌いました。感動しました。「自由」というイデオロギーを世界に標榜してきた歴史を持つアメリカという国が彼らは好きなんだな、と肌で感じました。一方、矛盾と社会的不公正を抱え、覇権国家として自由を世界に強制する姿勢は×なのですが。
だから国歌が嫌いではありません。しかし、国歌は民主主義を標榜したものでなければならない。また強制されるべきものではありません。権力を持った組織のトップがその組織そのものを大事に思うことは当然としても、その構成員に対して愛国心や愛社精神を強制することはあってはならないことです。
「必要な自由は、権力を批判する自由」藤原正彦
高松から直島へ。廃棄物処分場を見学。
夕方帰り、懇談会と懇親会。午前様で更新遅れ。
2/25
休日ゆっくり、考える。
「自由」という概念 藤原正彦さんの「国家の品格」より
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いま自由を否定する人は世界中にいないでしょう。私は「自由という言葉は不要」と思っています。控えめに言っても、「自由」は積極的に賞揚すべき概念ではありません。
日本の中世においては、自由というのはしばしば「身勝手」と同じ意味で使われていました。『徒然草』においても、そのように使われていたと記憶しております。
自由が著しく制限されていた戦中への反動から、また自由を国是とするアメリカによる占領統治もあり、戦後はことあるごとに「自由」が強調されてきました。憲法や教育基本法をはじめ、さまざまな法律にも、基本的な人間の権利として書かれております。しかし結局、自由の強調は「身勝手の助長」にしかつながらなかった、と言えるのではないでしょうか。
この「自由」という名の化け物のおかけで、日本古来の道徳や、日本人が長年のあいだ培ってきた伝統的な形というものが、傷つけられてしまいました。
人間にはそもそも自由はありません。それは当たり前のことです。生まれ落ちた瞬間から人間に自由はない。あんなに厚い六法全書があり、法律が網の目のように張り巡らされています。法律の他にも道徳とか倫理というものまであります。さらにどんな組織にも規則があり、そこでは協調が強いられています。我々の行動や言論は全面的に規制されているのです。
どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけです。それ以外の意味での自由は、この言葉もろとも廃棄してよい、廃棄した方が人類の幸福にとってよい、とさえ私には思えます。
権力を批判する自由さえ完全に確保されれば、他は制限されていい。そもそも、嫌な奴をぶん殴ったりする自由もないし、道端で立ち小便をする自由もない。私には諸般の事情から愛人と夢のような暮らしをする自由すらない。ほとんどの自由は廃棄するまでもなくあらかじめないか、著しく制限されているのです。欧米が作り上げた「フィクション」に過ぎません。
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まだ、藤原氏の思想理解できているわけではありませんが一理あります。
日本国憲法
第13条
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
第97条
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
藤原氏は「公共の福祉」の範囲に反する自由は認められない、と言っていると解釈します。「公共の福祉」の定義があまり触れられていないのは自由が制限されてきたことによって生まれた憲法の歴史的背景でしょうか。しかし欧米が作り上げたのは民主主義とパブリック精神。これが「公共の福祉」であり、この精神もとに自由があることは世界の常識ではないか、と考えました。
先日亡くなった、茨木のり子 氏の詩を3つ。
死因は転倒による打撲。
日ごろから
もはやなにものにも倚りかかりたくない
と口にしており
よりかかりミスによるものと思われます。
突然の訃報に、親しかった人々は
自分の命くらい
自分で守れ
ばかものよ
と怒りながら鳴咽していたそうです。
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「倚りかからず」
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは椅子の背もたれだけ
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人に迎合することは好きではありません。
「人に迷惑を掛けない」ことはもっとも人間社会においての基本的ルールであり
私の信条ですが、どうしても迷惑を掛けてしまうものです。
一方、人は一人では生きていけません。
私の所属する会の理事長は
「自然や人間のお付き合いは感謝の気持ちがなければならない」(かなり編集)
に類する意見をお持ちです。
迷惑を掛けるのも愛情であったりしますし
人間社会のもちつもたれつも有難い。
安易な迎合しないことと人の繋がりに触れる有難さは両立するものだと考えます。
茨城氏の詩にもあるように
人間は弱いもの
私自身、経営者そして人間としての未熟と努力の至らなさを認め、
自身の家庭の破綻を明からさまにすることにより
他山の石にしてもらえればいいのかな。
社会が良くなるために自分がよう良くなるべきか、変わるべきかを案じている次第。できあいの思想・宗教・学問・権威+歴史や世の中の具体的な事象から学び
唯物論的考察でもって自分自身のものにしていきたいな。
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「自分の感受性くらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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これは、反論もありましょう。
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「鄙ぶりの唄」
それぞれの土から陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛された人々に永く歌いつがれてきた民謡がある
なぜ国歌などものものしく歌う必要がありましょう
おおかたは侵略の血で汚れ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って 起立して
直立不動で
歌わなければならないか
聞かねばならないか
私は立たない
坐っています
演奏なくてはさみしいときは 民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
ヴォルガの舟歌
アリラン峠
ブンガワンソロ
それぞれの山や河が薫りたち
野に風は渡ってゆくでしょう
それならいっしょにハモります
ちよいと出ました三角野郎が
八木節もいいな
やけのやんぱち鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで
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昨年ニューヨークのヤンキースタジアムにて、松井が400号ホームランを打った日に私はいました。
試合開始前に観客が総立ちでアメリカ国歌を歌いました。感動しました。「自由」というイデオロギーを世界に標榜してきた歴史を持つアメリカという国が彼らは好きなんだな、と肌で感じました。一方、矛盾と社会的不公正を抱え、覇権国家として自由を世界に強制する姿勢は×なのですが。
だから国歌が嫌いではありません。しかし、国歌は民主主義を標榜したものでなければならない。また強制されるべきものではありません。権力を持った組織のトップがその組織そのものを大事に思うことは当然としても、その構成員に対して愛国心や愛社精神を強制することはあってはならないことです。
「必要な自由は、権力を批判する自由」藤原正彦