DMMの失効直前ポイントで
すごい映画を観せていただきましたっ
『サン・オブ・ゴッド』(2014米)
イエス・キリストの生涯については
すでにパオロ・パゾリーニ監督の
『奇跡の丘』(1964伊)があり
(他にもいっぱいありますが^^;)
「これ以上はなかなか難しいだろな」
と思っていたのですが
(チョイ役で作家のN・キンスブルグまで
出てたそう 知らなんだ~~)
「根源的な愛」は大切なテーマなので
こんなふうに才能豊かな方々が
さらなる革新をするのもいいですね
「セリフが英語だと実感が出ない」とか
「主演はユダヤ系男性がいいな」とか
小うるさいマニアとしては
思わぬ事もないのですが
そんなモロモロを払拭するほど
今回の映画はスゴかったです
「教会関係者の95%が満足」
というのもうなずけますね
全体的にしっかりした作りで
脇を固める俳優たちも良いけど
やっぱ主演の
ディオゴ・モルガドさんがすごかった
ラテン系特有の情が深い笑顔が
もうイエス様のイメージそのもの
登場の瞬間から
一気に世界観に引き込まれ
なんの不自然さもなくなりました
ディオゴさんはポルトガル出身で
私はお初の方だったので
彼について ほかの記事を見ると
しごくイケメンではあるけど
ハリウッドによくいる
俳優さんの一人にしか見えませんが
この役柄のために
並々ならぬ覚悟で臨むのはもちろん
厳しい節制までされたかもしれない
でないと あんな演技できませんね
そう思うほどに 素の彼と
画面のイエス様は全くの別人でした
演技というよりは
憑依とでもいうのか 観客の私が
当時にタイムトリップしたみたいな迫力で
これだけすごい作品を演ってしまうと
あとが大変じゃないかという
余計な心配もしてしまいますが
まさに映画史に残る人類の財産です
私は信者ではないですが
祖父が カトリックで
本格的ではないものの
折々 聖書の知識に触れていました
幼少期から本能的に
イエス様の事が好きで
宗教としてでなく
超人的ではあるかもしれないけど
ひとりの人間としてのイエス様に
尊敬や憧憬を感じてやまないのです
修道女をやってた過去世も
あるかもしれません
近代 ローマ・カトリック系教会の
数々の欺瞞がはがれ落ち
人間は神そのものだから
(私たちのひとりひとりが
宇宙の神の分け御魂であるという考え)
もはや宗教は必要ない
時代はそんな空気ですけど
『奇跡の丘』のラストシーンで
イエス様役の人が
「この世の終わりまで
(私は)汝:なんじと共にある」
汝だったか「あなた方」だったか
そこは ややあいまいですが
私が孤独な人間なせいか
死ぬほど感動した台詞で
今でもうっかり思い出すと
いつでもどこでも涙がにじみ
なんとも言えない
不思議な尊い気持ちになります
『若草物語』の三女ベス
アンネ・フランクと同様に
数少ない私の泣きどころ
私の中に残された最後の良心かな
実際聖書にも
そのまんまの文句があったはずで
イエス様は 現在もブッダなどと共に
11次元世界におわすと云われています
私がイエス様を
純正100%だと感じるのは
常に社会的弱者の味方であられた事
いかがわしい職業の女性たちにも
差別せずに祝福を与え
貧しい人々の地域へ自ら足を運び
まずそこから救われていた事
盲目の人を瞬時にいやしたり
水の上を歩いたり
処刑でいったん命を落とした後
復活されて 埋葬された洞窟から出たり
三次元の固定が当たり前の私たちには
信じがたい記述もありますが
昔読んだユングの本の中に
面白い話があって
カール・グスタフ・ユング
「フロイトとは別の道を進んだ
フロイトの後継者」的な
心理学者としての側面が有名ですが
彼の母方の家系は意外にも
霊感が強い人が多く
強い「霊媒」としての側面もあるのです
ユングにも直感がすぐれていたり
ご先祖の霊に導かれるような処があり
「科学とスピの融合なんて最強ぉ」
なんて思ってしまうワケで
ユングが若かりし頃
その母方の従妹である少女から
熱烈に恋されるのですが
この少女も霊感などの
サイキックなパワーがハンパなく
自分の気持ちに気づかないユングや
気づいてるかもしれないけど
従妹という関係性のために
どこまでも子供扱いされる事にブチ切れ
本人も無意識のうちに
激しいポルターガイスト現象を
ひんぱんに起こしていたのですが
(部屋の家具がぶっ壊れるレベル)
後にユングがその現象を
検証したり研究していく中で
それらを
「心の外在化現象」と名付けます
普通 手を動かしたり
実際に対象物に触れる事もなく
念じただけで物を動かすのは
不可能だとされてますよね
ところがユングの研究では
「人間が心から本気で望んだ事には
不可能などない」という
結論が出てしまったようなんです
イエス様の説話を聴こうとして
遠方からお腹を空かせてでも
やってきた人々のために
ほんのわずかの小魚と
薄いパン数枚しかなかったのに
イエス様がパンをちぎって人々に渡し
小魚のカゴを回していくうちに
5千人もの聴衆に
十分行き渡る量になった
そんな現象もそうなのですが
イエス様は
いわゆる「心の外在化現象」
その究極を起こしてたんじゃないかと
yapiは思うわけです
こういう力は
エゴがなければないほど
制限されませんから
イエス様は 自分が有名になって
高い地位につくとか
がっつりもうけてウハウハとか
美女に囲まれてハーレムとか
他人をコントロールしたいという
エゴが一切ありませんでした
ユング従妹の場合
「なんで私と同じように愛してくれないのよ!」
って怒りはエゴっちゃエゴですが
少女なだけに純粋だったんでしょうね
イエス様は悪い事もしてないのに
いやしい罪人のように戒められ
ひどい暴力や虐待をしのんだ末に
自分が張り付けられる十字架を
フラフラの状態で運ばされ
逃げ出す気配もなく 処刑された
それのどこが人類への愛なのか
神が望む「御国」につながるのか
私は信者ではないのもあって
理解すらできてない部分もあり
うまく説明できないのですが
イエス様がボロボロの状態で
牢から引き出され
歩くのもままならないのに
大きくて重い十字架を運ぶ先の
『ゴルゴダの丘』は不要なまでに
冗談みたく はるか遠くにあって
それが心を痛ませます
イバラの冠をかぶせられ
刑吏たちから散々バカにされ
さすがのイエス様も最期の瞬間には
「なぜ私をお見捨てになったのです」と
天なる父の神に絶望されていました
イエス様を売り渡しておきながら
代価は恐れ多くも
銀貨50枚と言われていますが
あとではそのお金を投げ返すユダやら
(裏切りのハッキリした動機も不明
映画でも描かれてませんでした
家康でいうところの
石川数正のように密約があった)
雄鶏が鳴く夜明けまでに
イエス様など知らないと
三度も否定してしまうだろうと
予め言われていたペトロなど
「師が苦難の真っただ中にいるのに
弟子は気楽なもんだよね」
と思わぬフシもなかったんですが
私は知らなかったんです
洗礼者ヨハネの付き人だったという
別ヨハネさんを除いて
(この俳優さんも実にエエ顔してたな)
使徒は11人とも殉教してた~~
紅一点であるマグダラのマリアには
今回特に焦点は当たってなかったけど
こちらは文句ナシ ユダヤ系の美女で
私の中のイメージにまずまず合致
彼女も殉教説がありつつ
あまりにも謎に包まれており
何ともいえないようです
あと ローマ総督ピラトさんが
思った以上に強い印象でした
奥さんが処刑の予知夢を見て
イエス様を殺しちゃいけんと
旦那をいさめますが
ピラトはイエス様の魅力に打たれつつも
官僚的な立場との板挟みになり
(総督と言いつつ
あんまし思い通りでもないのね)
苦悩しながらも 自分が泥をかぶる事は
徹底的に避け通して
まあ 好印象ではないけど
頭の良い人物だった事は確か
群衆がイエス様よりも
盗賊バラバの釈放を要求するに任せてしまう
考えられない だって
凶悪な盗賊で 人殺しですよ
今まで私自分の
理不尽逆境人生を嘆いてきましたが
もう比べ物になりませんから
その件をグチるのはやめますね
ただ張り付け十字架の説明文を
「ユダヤの王を自称したイエス」
にしようとした部下に対し
あくまでも
「ユダヤの王イエス」にしろと
主張しとおすピラトは良かった
本当はわかってんじゃねえか大将
いくつになっても
新しい視点を下さるイエス様
処刑時の受難がひどすぎて
いくら神のひとり子といえど
あそこまでの必要があったのか
平凡な人間として思わずにおれませんが
あの受難の数々は
後世の私たちのためだったのだと
今は理屈抜きで感じています
当時の肉体は人間にすぎぬイエス様は
傷つけられた部分の再生もされず
虫の息でひたすら耐えておられました
そのお姿を思い出す度
あれだけ宗教の弊害を挙げておきながら
しもべになってしまいそうなyapi
影響力ハンパない映画でした