ゴーゴリが『死せる魂』
第二部の草稿を暖炉にくべたのは
単に行き詰ったからだけじゃなく
彼が傾倒していた宗教の教主から
~狂信的な人物だったらしいですが
「文学を断念するように」と
言い渡されたからなんです
小説からは緻密な計算や
理性しか感じないのに
この頃のゴーゴリはとても
精神が不安定だったといわれ
その事を知った私は
作品から感銘を受けていた分だけ
大きな衝撃を受けました
『死せる魂』第一部が
生前最後の作なだけあり
洗練された文体と
考え抜かれた構成だっただけに
このときはもう外国にいて
直接 批判にさらされる事も
なかったはずなのに
「一体何があったんだろう」
そう思ってしまったし
この小説を書き上げてから
彼はまもなく亡くなり
死因すら不明なんですって
第二部は草稿の一部が残ってて
順番も めちゃくちゃだったのを
どうにか編集して世に出した
出版社もあるようですが
著者にとっては
本意じゃないかもしれないし
そこまでして私は
読む気になれませんでした
彼がロシアの作家というよりは
ウクライナ出身だったと知ると
ほかの作品も読みたくなり
昔のウクライナの風俗が
とてもよくわかりそうな
『ディカーニカ近郊夜話』
という作品が見つかり興味津々
県立図書館から取寄せると
鮮やかな赤一色の装丁で
『ロシア文学全集 第30巻』
昭和34年に修道社から出版
マニアックでうれしいなっと
とても古いにもかかわらず
状態は良好ですし
翻訳にも不自然さは感じませんが
ふりがながたまに薄くて見えない
巻頭にあった『隊長ブリバ』から
読み始めたところ
ほんの110Pほどの作品なのに
重厚さがハンパないし
(たったこれだけのページ数で
一日仕事になりました)
字がぎっちりで ページがもう黒々
『死せる魂』のような
ユーモアや余裕はありませんが
作家としての天分があふれんばかりで
さすがゴーゴリと思いました
題名からして
昔のロシア圏にはよくいたような
俗物のいちタイプを描いた作品かと
思いきや 『死せる魂』が
「俗物図鑑」だったのに対し
『隊長ブリバ』はなんと
「コサックの百科事典」でした
ちょっとほかでは
読めない内容だと思いますよ
ショーロホフの『静かなるドン』も
コサックの小説ですけど
こちらはもっと後の時代を描いて
どちらかというと
「コサックの人々のなれの果て」
という感じでしたが
今回の小説は
「100%純正のコサック」で
しかも脚色はほんの一部だけ
実在の人物たちを描いています
『静かなるドン』に登場する
コサックたち その多くが
騎馬技術に長けてて
曲乗りまで できたり
異常にケンカっぱやかったり
彼らの居住地区全体が
『泥棒村』みたいな様相を帯びてたり
現代日本とはかけ離れた世界でも
良し悪しは関係なく
かなり引き込まれてしまいます
コサックについて
あまり理解できてないまま
「そういうモンなのね」で済ませて
読み進めていたのですが
今回でずいぶん
多くの事がわかりました
コサックは基本
『半遊牧の自衛(騎馬)集団』で
モンゴル帝国に支配された中世
兵隊として駆り出されるのイヤさに
そこから逃げ出して
ドン川やドニエプル川下流などに
自衛集団を作ったのが始まりで
そこへ逃亡してきた農奴も加わり
スラブ系・トルコ系・タタールなど
民族的には雑多で
必須条件はロシア正教徒である事
タタールは回教徒ですが
ロシア正教へ改宗すれば
どれだけ暗い過去があろうと
すぐに入団が認められました
兵士となり 外国に遠征したり
平常時には畑や 家畜の世話
魚を獲ったり 商売したり
驚いたことに コサックには
逆に「できない事がない」と
言われているくらいで
酒の醸造や 鍛冶仕事
荷車や火薬の製造
でもいちばん得意なのは
飲めや歌えの乱ちき騒ぎ
それも立派な仕事なんです
せっかく多才多芸なのに
生産的な能率や合理性には
なぜかあまり関心なく
良くも悪くも
男気のかたまりみたいな人が多い
かといって欧州の騎士道や
日本の武士道とはかなり異なって
北欧のバイキングたちが
寒くてやせた土地で
ろくに作物も取れなくて
必然的にそうなっていく感じとは違い
「最近退屈だな」というだけで
他国や異民族に
襲いかかる危険きわまりない人々
必要なものや欲しいものを
奪うだけでは済まず
無意味としか思えない
残酷な殺りくもやってのける
大量の死体って
いちばんのムダだと思うんです
日本みたく火葬じゃないから
すごく場所も取るし
それなのにもかかわらず
「敬けんなキリスト教徒」とは
一体どういう事なのでしょう?
まあ残念ながら
いちばん多くの人を殺してきた
歴史があるのは
キリスト教でしょうかね
カトリック教徒なども
こちらから見れば
「お仲間でしょ」と思いますが
彼らはひたすら敵視
終わりもないし 救いもない
「伝説の」なんて付けると
日本人はどうしても
道徳や倫理も込みの
印象を持ってしまうかもですが
そんなものは ほぼ皆無
お勧めポイントは
「にもかかわらず感動」という処です
まだ海外旅行は少し難しめですが
ぜひ この作品を読んで
『隊長ブリバ(ブーリバ表記もあり)』
『タラス・ブーリバ』
精神だけでも 狭い日本から
ちょっと飛び出てみませんか?
コサックの中のコサックといわれた
老ブーリバ
何歳くらいかの明記はないですが
たとえ50~60代だとしても
昔は老いが早かったから
余計に驚くべきことだと思うんです
彼がコサック軍の長になったとき
ほんの若造にいたるまで
ひとり残らず 彼を恐れ
かつ心から尊敬していました
身の危険もかえりみず
彼に認められるような働きをして
もし命を散らすなら
それでも構わない
隊長ブーリバの指揮のもとに
一糸乱れぬ統率が取れてる処など
問答無用の迫力があります
それとまたすごく印象的な
隊長のふたりの息子
長男オスタップは実在の人物
冷徹な頭脳とコサック魂が
凝って出来たような人物です
隊長の跡を継いで
頭目のような立場になりますが
ワルシャワで囚われて
残虐すぎる刑に処されます
死刑囚に無用の苦しみを与えず
人道的に死なせるというのは
ごく近代の考えで
当時15世紀では まだ処刑は
イベントまがいの見せ物でした
父親ブーリバは まだ生きてましたが
二千両もの賞金かかったお尋ね者
長男を助け出すのは無理ですが
最後にどうしても会いたい
感傷とはまた違うのですが
長男の死にざまを見届けたい
そういう気持ちだったようです
以前 少し恩を売った事のある
ユダヤ人に助けてもらい
ブーリバはワルシャワに潜入して
ようやく目指す監獄に乗り込みますが
ユダヤ人が手を回してくれて
すでに事情を知っている警備兵から
型通りの質問があり
ほんの少し お愛想を言えば済むのに
隊長はそれすらできず
本音を激しく爆発させます
長男の処刑は目前に迫って
命がけの場面だというのにねぇ
なんかそういうトコ 私と似てるな
世渡りがうまくない
でも あまりの人だかりと
つんざくような騒音で
処刑場の位置を突き止めて
長男の死に際に間に合います
関節や骨をひとつずつ折られても
長男は悲鳴ひとつあげないどころか
顔色ひとつ変えず
淡々と耐えていましたって マジか
隊長ブーリバは
「さすが俺の息子」と泣きもせず
長男の姿を目に焼き付けますが
長男オスタップは死に臨んで
父親とは正反対のやさしい母親や
結婚してる話は出てこなかったけど
もしいても嫁なんかには
この場合いてほしくなかった
自分を弱めるだけで
今の役には立たないからですね
「今この場にお父さんがいてほしい」
「お父さんには見届けてほしい」と
息子のほうでも思っていたのが
この話の救いであり
ウクライナとは縁もない私でも
コサック魂の一端を理解できる処です
次男のアンドリイのほうは創作だけど
とても素敵な人でした
「コサックにも王子様っていたのね」
みたいな
純正コサックは基本
読み書きでけん人が多かったのですが
隊長ブーリバと違って
この兄弟は首都キエフの
宗教学校に通って まあ一応の
学生生活を体験してますし
次男アンドリイには
家系によるコサックの素質と共に
騎士道精神のような
『欧州の洗練』の要素がありました
どうしても金髪碧眼の青年を
思い浮かべてしまうのですが
後世コサックと違って
バリバリの現役コサックですから
残念ながら彼も
満州族のような弁髪だったようです
さらにイメージしにくいのが
彼と恋に落ちる
ポーランド貴族の令嬢までが
弁髪だったという記述があり
信じたくないし イメージできぬ
私としては翻訳者が
「三ツ編み」と訳すべきを間違えたか
仮に弁髪という単語だったとしても
そこは三つ編みにしとこうよ…と
思わずにいられないのですが
そこ除けば すごく浪漫チックでした
ゴーゴリ こんな感じも書けるなんて
『死せる魂』では浪漫チックな要素
全然なかったから
小説においては 海千山千のyapiが
「恋愛の場面で涙するなんてっ」
というほど感動的でした
「戦争で食べ物がない」
なんて状態を作っちゃいけない
人間どうしが殺し合っちゃいけない
愛し合う者どうしが
引き裂かれてはいけない
と50歳にして今さら思ふ