神避り(かむさり)給われた妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)のことが忘れられない夫・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、
伊邪那美命に会おうと黄泉の国に訪れます。
ここに其の妹伊邪那美命を相見まく思ほして、黄泉国に追ひ出でましき。
ここにそのいもいざなみのみことをあいみまくおもほして、よもつくににおひでましき。
対面が叶って伊邪那美命にまだ国造りは途中だから帰ってきてくれと頼みますが、
黄泉の国の食べ物
をすでに口にしてしまったのでもはや帰れないと答えます。
・・・黄泉の国の食べ物を口にしてしまったらもう戻れない、という話はギリシャ神話にも「ハーデス」「ペルセポネ」「デーメーテール」の話が有名で、この時の食べ物は「ザクロ」でした。洋の東西で冥界に関する記述で食べ物を口にするかどうかが帰還の可否だという興味深い共通項が見られます。
現代で普段私たちが口にしている食べ物は本当にすべてこの世の食べ物なのでしょうか。
近年アレルギーやアトピーの子供たちが増えてきているように思うのですが、ひょっとして冥府の食べ物が混ざっているのではないでしょうか・・・つまり生きている身体にあっていない食べ物ってことですが。
伊邪那美命は愛しい方が自分を迎えに来てくださったのだから帰ってよいかどうか黄泉の国の神に聞いてくるからそれまで待ってほしい、そして自分の姿は
決して見ない
ように、と約束をさせ奥に下がります。
伊邪那岐命はあまりにも待たされたので「見ない」という約束を破り、櫛の太い歯を一本折って岩にこすり付け火を点け、その火を頼りに奥へと進みました。
神棚や仏壇のろうそく立ては大概一対になっていて、
一つだけの火は
「一つ火」
として「忌火」とされていますが、その起源をこの逸話に見ることができます。
そこで見た伊邪那美命の姿は腐敗しとろけ、身体には8種の雷神がまとわりついています。
伊邪那岐命は怖くなり(見かしこみて)、逃げ出すと、伊邪那美命は恥ずかしい姿を約束を破られて
見られた
ことに怒り、「よもつしこめ」にそのあとを追わせます。
もう結構前の話になりますが、田村正和さん主演のTV刑事ドラマ「古畑任三郎」犯人澤口靖子さんの回で、宗教戒律をやぶり赤いルージュを塗ったところを見られた同僚を撲殺する話が放映された時、伊邪那美命の話を思い出しました。
「恥ずかしいところを見られる」タブーの重さは女性にとってどれくらいなのか、男の私はただ想像するだけです。
見るなと言ったのに見た伊邪那岐命を追いかける、藤原氏によって左遷され不遇の生涯を送った菅原道真公が雷神となり祟る、親は聞き分けのない子供に「雷さまがおへそを取りに来る」などと昔は言っていた(私は言われたこと何度もあります)・・・雷は
懲らしめの象徴
と見ておけばよいと思います。
稲の「妻」と書いて「稲妻」、
ご先祖様は稲と雷が結ばれ、稲は実り豊かな豊作を迎えると考えていました。
「妻」ということは稲が男で雷が女、なんだかイメージからすると逆じゃないかとおもっていたのですが、ひょっとして伊邪那岐命の妻であった伊邪那美命の屍から生まれ出ていたから雷が妻なのかと思うと合点がいきます。
伊邪那岐命は髪飾りのひもや櫛の歯を投げると葡萄・たけのこに変わりそれを追手が食べている間に逃げ続けます。
貪り食らう姿は、物質文明にどっぷりつかった物欲の姿として読みました。
黄泉の国は
物質文明の醜い一面の象徴
のように思えます。
次に雷神が追ってきたときには十拳剣(とつかのつるぎ)を
後ろ手に振って
追い払いなんとか出口までたどり着きます。
後ろ手のしぐさは実は
「呪い」
のしぐさで、後に登場する海幸山幸の話でも後ろ手しぐさの呪いが出てきます。
最後は伊邪那美命が追ってこられましたが、
伊邪那岐命は入り口を大きな岩でふさがれ、
そこでついに永遠の別れ、
伊邪那美命は一日に千人を殺すぞ(千頭絞殺さな=ちがしらくびりころさな)といわれ、
伊邪那岐命は一日に千五百人を産み増やす(千五百産屋立ててむ=ちいほうぶやたててむ)と宣言します。
神には寿命がなく今まで自然死はなかったけどこれで寿命が生じることになりました。
日本で最初の夫婦喧嘩です。
以後伊邪那岐命は地上の、伊邪那美命は黄泉の国を統治することになったといいます。
思えばともに国造りをしてこられたのに最後は啖呵の掛け合いで別れてしまいました。
伊邪那岐命の「禊」(みそぎ)では日本の「最高神」とされている神がいよいよ登場します。
ということはこの黄泉の国で「穢れ」(けがれ)ることも必要なステップだったということになります。
穢れについても一度まとめておきたいと思います。