【光雲神社(てるもじんじゃ)】(福岡市中央区) | 八百万の神の浮世絵師 持田大輔

八百万の神の浮世絵師 持田大輔

日本最古の歴史書『古事記』を題材に絵を描き活動しています。
八百万の神々が織りなす天地創造、天岩戸伝説など神様の喜怒哀楽が記された神話を少しでも多くの方に知って頂きたいと思います。

【光雲神社(てるもじんじゃ)】(福岡市中央区)


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光雲神社は神社本庁の別表神社で、

 

筑前福岡藩祖・黒田孝高(くろだよしたか)公(如水/官兵衛)と、

 

その息子で初代筑前福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)公を祀っていて、

 

西公園と呼ばれる小高い山の中腹に鎮座し、

 

眼下に広がる福岡の町を今でも守護されています。



光雲神社の社名は両神の法名(龍光院殿、如水)(興雲院殿、長政)から

 

「光」と「雲」の一字ずつをとって命名されました。

明和6年(1766年)、6代目福岡藩主の黒田継高(くろだつぐたか)公が、

 

長政公を「武威円徳聖照権現」として福岡城二の丸、

 

祈念櫓下に祠を創建し祀ったのが始まりとされ、

 

その後に孝高公を「水鏡権現」として合祀しました。



かつて鎮座地の西公園は荒戸山(荒津山)といわれ、

 

金龍寺という禅寺がありました。


福岡藩2代藩主・忠之(ただゆき)公の時、

 

この山に徳川家康を祀る東照宮を荒戸山に建立。

 

金龍寺は鳥飼(現在の今川二丁目)に移されました。


しかし、徳川幕府が倒れ明治維新を迎えると、

 

東照宮の意義も薄れ参詣者も絶えます。


明治4年(1871年)、廃藩置県により黒田家が東京に移転するにあたって、

 

有志が11代藩主黒田長溥(くろだながひろ)公に懇願し、

 

福岡城内の祠堂より小烏吉祥院跡に新たに祠堂を建立し、

 

明治40年(1907年)、光雲神社は東照宮の跡地であった

 

現在地の西公園に再移転、遷座しました。



境内には長政公が愛用した「水牛の兜(「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」)の像の手水舎」があり、

 

豪壮さ溢れる造りの兜ですが、優美さも兼備した一品で、

 

現物は国の重要文化財に指定され、福岡市博物館に所蔵されています。


水牛の兜という名前ですが、実は本物の水牛の角ではありません。

 

本物の角であれば、重くて戦場では使い物にならないので、

 

桐の木で形を作り、和紙を貼りうるしを磨き上げたものです。


兜は、もともと浦野半左衛門勝元という長政の家臣の持ち主で、

 

勝元が長政に仕えるときに献上したものと伝えられています。

 

長政はこの兜がたいそう気に入り、よく着用したようで、

 

後に浦野家に同じものを造り与えました。



ちなみに浦野家は、幕末の女流作家で高杉晋作など勤王派の志士たちと

 

付き合いがあった野村望東尼(ぼうとうに)の実家です。

 

望東尼が娘時代、浦野家が火災になったときに、

 

家に帰り着いた望東尼が最初に尋ねたのが「家宝の水牛の兜は無事か?」と

 

長政由来の兜を案じたことで、浦野の娘はしっかり者だという評判になり、

 

福岡藩は再度、兜の模造品を造って浦野家に与えました。



光雲神社の拝殿天井には賽銭を入れた際に、鶴の鳴き声が聞ける

 

日本画「謡鶴」(作者:木原信)の装飾があり、

 

一風変わった趣向が凝らされています。


他にも、福岡藩士で黒田二十四騎の一人・母里友信(太兵衛)の銅像があり、

 

銅像下部には母里をモデルとした有名な民謡「黒田節」の歌詞が刻まれています。



この光雲神社がある西公園は福岡市内でも有名な桜の名所で、

 

日本さくら名所100選にも選出されているほどです。



◆ご祭神
水鏡権現(黒田孝高)
武威円徳聖照権現(黒田長政)

境内社
荒津神社
堅磐神社

 

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