【荒平天神(あらひらてんじん)】(鹿児島県鹿屋市) | 八百万の神の浮世絵師 持田大輔

八百万の神の浮世絵師 持田大輔

日本最古の歴史書『古事記』を題材に絵を描き活動しています。
八百万の神々が織りなす天地創造、天岩戸伝説など神様の喜怒哀楽が記された神話を少しでも多くの方に知って頂きたいと思います。

【荒平天神(あらひらてんじん)】(鹿児島県鹿屋市)

 


@art.mochida.daisuke
大隅半島に鎮座する荒平天神は、本来の名は「菅原神社」といい、

 

あの学問の神様・菅原道真(すがわらのみちざね)が祀られている神社です。

 

天神様というと学問の神で有名な「太宰府天満宮」(福岡県太宰府市)と同じご祭神。

 

そのため学業成就、進学や受験といった合格祈願で訪れる人も多く、

 

錦江湾(鹿児島湾)に面した南国情緒溢れる雰囲気も観光地として人気です。

平安時代に文武両道の秀才として名を馳せた菅原道真公。


幼少より詩歌に才を発揮し、11歳で初めて漢詩を詠んだといわれ

 

詩歌や書道にも秀でており、遣唐大使でありながら“遣唐使廃止”を進言したとして知られています。


当時は59代宇多天皇(うだてんのう)から側近として抜擢されるなど信任も厚く、

 

60代醍醐天皇(だいごてんのう)の御代になると、右大臣にまで昇り詰めました。

しかしながら道真公は、謀反の濡れ衣を着せられ

 

大宰帥(だざいのそち)に左遷され、失意の中で大宰府で没します。

道真公死後の様々な天変地異や関係者の急死は、

 

道真公の霊の祟りであるともいわれ、

 

朝廷は道真公の罪を赦すと共に贈位を行ったとされます。

 

また連座で流罪されていた子供たちも罪を解かれ、

 

京に呼び返されました。

 

それほどの影響力を持っていたために、

 

現在でも「学問の神様」として広く崇敬されていて、

 

全国に8万もの神社がある中、稲荷神社、八幡神社に続いて多いのが

 

この天神様をお祀りする天神社や天満宮です。


その数多くある天神神社の中でも、

 

これほど海に面しつつ南国色に映える神社は他にありません。


引き潮時には砂浜を歩いて参拝でき、

 

大潮の満潮時にはこの砂浜が海に沈んで、さながら海に浮かぶ神社になります。


ただ小島の上に社殿があるのですが、かなり急な階段で老朽化している場所もあり、

 

途中に大きい岩と木の根が階段の参道を跨いでいるなど

 

参拝時は歩きやすい靴がオススメ。

 

狭い境内で無人の神社のため御朱印は頂けませんが、

 

天神様ではお馴染みの神牛が手水所の所にいます。

海岸から突き出た形で建てられている荒平神社は、

 

その光景が美しいことで観光名所となっていますが、

 

鳥居と岩山を結ぶ砂州の部分にあるため、満潮になってしまうと

 

岩山に渡ることができず、お参りもできません。

 

観光するには満潮時が人気が高いようですが、

 

拝する際には砂浜がのぞいている間が良いです。

この荒平天神が建立されたのは、今から400年以上も昔の戦国時代、

 

天文年間(1532年~1555年)という言い伝えがあり、

 

この頃は島津氏と対立していた肝付氏の勢力がこの地で最盛期を迎えていた頃です。

 

大正時代に一度焼失してしまったそうですが、奇跡的に木像の御神体は無事だったようで、

 

そんな歴史も、また神秘さを際立たせています。


この大隅半島はその昔、隼人族や熊襲の縄張りで、

 

大和政権が勢力を拡大した時期においても半独立状態を保っていた一大勢力でした

 

そのため大隅隼人は養老4年(720年)に隼人の乱を起こし反旗を翻すなど、

 

度々朝廷と戦いを繰り広げていた一族です。

 

しかし、その反面隼人族の一部は早くから大和政権に与して、

 

国造・県主など重要な役割を担ったり、宮中文化としても隼人舞が継承されていました。

 

隼人族や、その後この地で繁栄した肝付氏と荒平天神との関係性も気になるところです。

◆ご祭神

• 菅原道真公
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