「殺す親 殺される親」 児玉 真美著  地元新聞に書評が出る。3回読んだが

若いころの仕事で障害児を福祉施設にと入退所させていった行政担当者の一部として・・・・当時を

 

思い出していたのだ。家庭での障害児保護の支援をしたこともある。民間サイドでの支援経験もある。

書評を新聞に載せられたのは、杉田俊介・批評家である。

 

短い書評なので新聞記事を写しながら・・・小生も学習をしていきたい。われわれのことでもある。

以下。

 

すさまじい本だ。著者は重い病気のある娘の親として、近年の国内外の医療現場や生命倫理

の最前線へと切り込んでいく。

 

科学技術と医療の発達は、障害児の身体の「デザイン」をもたらしている。親たちの不安や葛藤

に付け込みながら、時には、親による子の「慈悲殺」こそが「本人のため」とされ、「深い愛」として称賛される。

 

それが終末期の人の「安楽死」を正当化し、経済的事情を背景とする治療の差し控えにもつながる。

そこには生命価値の選別がある。こんな社会には救いがない。

 

だが、それは著者自身にも容赦なく切り替えされていく。誰よりもこの子を分かっている、という思いで

、余りにも長い間、介護をしてきた親こそが、時に子にとっての「強い者」になり得るとしたら。

 

わが子の身体や生命に介入する親たちと、どこがちがうのか。ならばせめて、本人の意思や思いに

真摯に向き合っているか、親も常日頃から「自らを問い返す」べきだ。と著者はいう。

 

さらに自らの老い、家族の介護やみとりを経て、著者は家族介護を「献身」とする社会の中で、命を

丸ごと引き受けたわが子を「殺させられ」ていく「弱い者」としての親の姿をも発見する。

 

親が子を殺す社会とは「家族に殺させる社会」である。「母として」「わが子のために」語る言葉はあるが

、「母でもある私」を、その「弱さと醜さと矛盾」をありのままに語る言葉が無い、と。親もまた「一人の人と

 

しての私」であるのに、当たり前に疲れ、老い、病むことを許されていない。

著者が最後に行き着く問いは重い。「いつかこの子を残して逝けるだけ、私は総体として人間を信じること

 

が出来るだろうか・・・・・・」。医師・患者・家族が互いを尊重しつつ努力し積み上げていく信頼関係が十分に

あれば、あるいは・・・・。いや、やめよう。著者が明るい希望を語っていない以上、むしろ世界の救いのなさ

 

を見つめよう。そして自らを「問い返」そう。                 以上

 

※上記の中心に記載される題字は「世界の救いのなさ見つめ」と大きく表示されている。

 

現場を年数踏んでいると・・・・家族・障がい者・老人・精神科受診の者・・・・いろいろな家庭に

いろいろな事情が浮上してくる。行政の担当者のみならず、チームワークとなって複数の

 

関係者が家庭の問題を解決してく努力がなされる・・・・。しかし、表面に事故が事件が現れることは

極めて少ない。・・・・。上記の評論は核心を表した短文であるが真実でもある。命が消えて無くなる。

 

そして家族の苦悩もみられるのだ。強い者を周囲は厳しい目で見る。強い者を弱者として見ることは無かったのだ。

今は上記の評論のごとき強者は多くの苦悩と苦難・困難を長い間持ち続けるのである。社会は、周囲は‥‥手を差し伸べ

 

ることは僅少である。上記の評論は小生が数年間勤務し従事した仕事の時代とは大分背景が違っているのだが、本日

改めて・・・・評論した人の鋭い見識が垣間見えるのである。ショックであった!!

 

上記は、我々と周囲の人々そして日本人全体のことであろうか。「自ら見つめ返す」しかない。