「世界の闇の構造」を知ることが   目覚めではない           人間らしさを超える          本当の目覚めの定義#24


ひとりごと記事

乙女のトキメキ闇を知るという罠
​世間では、「世界の不公平な構造」や、「社会の闇の真実」を知り、それに対して怒り、声を上げる人が「目覚めた人」と呼ばれる風潮があります。    しかし、私はそれは違うと思っています。
​ 闇を知ることは、「分離の幻想」が作り出した台本の一部を見たに過ぎません。
それは、「人間という小さな視点」で、「加害者対被害者」のゲームに巻き込まれている状態です。
​ 真の目覚めとは、その闇さえも乗り越えていくこと、飛び越えていくこと。
それさえも超えていくこと。
人間らしさ(エゴと分離)を完全に超えていくことなのです。
乙女のトキメキ「愛か恐れか」という二元論の限界
​ 多くのスピリチュアルで語られる「愛か恐れか」という判断軸も、分離の幻想の中に囚われた、エゴ的な判断軸です。
これは、善と悪、光と闇という二元性のゲームから抜け出せていません。
​ 創造主の視点には、「恐れ」という概念は存在しません。
あるのは、「意図(波動)を純粋な創造に使うか、それとも古い幻想の維持に使うか」という「能力の選択」だけです。
​争いや対立も、「恐れ」ではなく、「創造主としての能力を、幻想の維持に誤用している状態」の極限の表現なのです。
私たちは、その二元性のゲームから、完全に意識を引き上げなければなりません。
二元性のゲームからの学びが終了していようとなかろうと、もう地球のステージは次へとシフトしており
二元論について論じることすら、そこに留まることになってしまいます。

乙女のトキメキ闇は「愛から生まれたコントラスト」である
浄化を終えた私にとって、目の前の闇と感じる映像は「自分の中にまだ闇がある」と告げる鏡ではありません。
​それは、「ワンネスの愛から生まれた、コントラストの映像」です。
闇が濃く映し出されるからこそ、「私はこの光の方向を選ぶ」「私はこの愛の創造をする」という、純粋な意図(波動)が、より鋭く、より純粋に定まります。
ただそのための指標でしかないのです。


私の能力は、闇と戦うためにあるのではない。 闇の存在を「コントラスト」として認識し、「人間らしさ(感情的な判断)」を放棄して、純粋な創造の意図に戻るための指標なのです。
乙女のトキメキ真の目覚めは「源の眼差し」になること
目覚めとは、「人間らしい感情」で闇に反応し、エネルギーを注ぐのをやめ、「源の眼差し」を世界に向けることです。
​もし「正しさ」という言葉があるとしたら、それは「源(お母さん)の眼差し」のこと。
存在するすべて(人間、地球、銀河、神々など)が源の子どもたちだとすると、源は、その子どもたちが紆余曲折しつつも進化成長しあっていくプロセスを、ただ見守り、信じている。
​「正しさ」とは、そのすべての成長を温かく包み込む、愛そのものです。子宮、宇宙、すべてを内包するその愛こそが、「人間らしさ」を超えた、ワンネスの境地なのです。
乙女のトキメキ愛の波動を保つこと
あなたが闇を知り、それに怒りのエネルギーを注ぐ限り、あなたはまだ分離の幻想の中にいます。
闇さえも愛であり、包み込み、映像を創造するために、あなたの波動はある。 
これが、あなたが「人生のハンドル」を源と接続しながら握り続ける、最終的な意味です。