こんにちは。急に気温が下がって、うっかり風邪を引きかねない気候の上、早々とインフルエンザの感染も拡大している様子。体調の管理に一段と念を入れて、くれぐれも御身大切にお過ごしください。今回のブログは、モノづくり日本の代表的な中小企業集積地として、海外にも広く名を知られる、大阪の東大阪・中河内エリアをフィーチャーした内容です。
大阪市中心部のかつて船場と呼ばれた界隈の一角、三休橋筋に面して、「日本綿業倶楽部(綿業会館)」なる名称の重厚な趣きを持つビルディングがあります。1931年(昭和6年)竣工の建物とのことなので、完成してから間もなく100年に及ぼうとする歴史を持ち、2003年に国の重要文化財指定を受け、2007年には近代化産業遺産のひとつともなった、大阪の近現代建築史を物語る貴重なレガシーに他なりません。そして、特筆に値することは、これほどの評価を受ける建物が、そもそもの始まりにおいて、政府や官庁が建てた公的建築でもなく、会社や商店が営利のために建てた商業建築でもない、要するに、大阪の繊維産業に関わる財界人が親しく集い、社交・親睦を深める目的で建てられた、その由来にあるといえます。「日本綿業倶楽部(綿業会館)」が完成した当時、経済圏としての大阪は、規模と繁栄のレベルで東京を凌ぎ、日本一の実力度を誇っていました。大阪がいわゆる大大阪(だいおおさか)であった時代です。実際、1930年頃のデータを繙くと、製造業の出荷額で見た場合、大阪が約25億円であったのに対し、東京が約10億円。また、卸売業の取引額で見た場合、大阪の全国シェア約40%に対し、東京が同約30%。他にも税収額で見た場合、大阪(市)の約5,000万円に対し、東京(市)が約3,600万円であったなど、大阪が東京をリードしていた状況を、数字を通して知ることができます。
そして、当時の大阪が隆盛を謳歌していた基盤にあったのが、綿紡績に代表される繊維産業です。日本の製造業が内需主体の構造へと変わる遙か昔である故、海外市場に広く製品を展開し、輸出で大きな利益を上げていたのが何よりの強みでした。そのような往古の事情に接すると、令和の今も重厚に存在する、まさに100年建築の「日本綿業倶楽部(綿業会館)」が、大大阪黄金期を支えた糸へん商人たちの社交・親睦の場であったことから、彼らの悠々たる余力を感じつ、さらには、稼ぎ出された富全体の莫大さを如実に思い描かされます。
しかしながら、大阪経済の地盤沈下が明らかになって、もう随分と年月が経ち、東京一極集中が増々と進むばかりの現状では、大阪がトップであった時代の話を聞かされても、特段にマインドが上向くものではありません。とはいえ、今日においても、大阪は多様で独自性に富んだ産業コンテンツを持ち続けており、ローカルアイデンティティが反映された、固有の価値を見出すことができます。すなわち、大阪の東部地域=東大阪・中河内エリアには、製造業を主体とする中小企業が稠密に集積し、日本国内のみならず海外ともビジネスの紐帯を設けて、絶えず景況の波に揺さぶられつつも<どっこい生きてる>とばかりのしぶとい存在感を、ことあるごとに示しているのは、広く周知されているところです。もちろん、地場産業というフレームで捉えれば、中小企業の頑張りが際立つ事例は、大阪に限られた訳ではありませんが、戦前からの歴史が重層する時間軸の面でも、10坪のガレージ工場から工業団地までを糾合する空間軸の面でも、東大阪・中河内エリアは著しく突出した、揺るぎない特徴をはらんでいます。
一方、東京には、大田区エリアなる中小企業の大集積地が形成されており、東大阪・中河内エリアと相似てはいるものの、よくよく探れば、両エリアの差異が明瞭に浮かび上がるといえます。そこで、概略ながら東大阪・中河内エリアと大田区エリアを並べて見比べ、下のような対照表を書き出しました。この対照表を入口にして、さらにまとめを行うとすれば、まず、両エリアの差異に目を向ける以前に、どちらにも備わる特徴を踏まえる必要があります。
つまりは、加工・組立の優れた基幹技術を持つ中小企業が密集し、モノづくりの拠点となっている点がそれです。特に金属加工、機械部品製造、金型、表面処理など、高度な技術を要する多種多様な下請け・町工場が集積し、その結果、地域経済において、製造業が非常に重要な役割を担う図式が成立しています。また、同じ街区に多くの事業所が隣り合うことで、納品までの日数短縮や、複数の企業による連携(ネットワーク)を通じた、複雑な製造案件への対応が可能です。加えてこれは、地域内の技術力の継承と、同業種間での切磋琢磨による向上・進歩のバックボーンであるともいえるでしょう。但し、上の共通性は、あくまでも出発点です。
なんとなれば、東大阪・中河内エリアが<量産型/部品特化型>パートを受け持ち、大手の量産を支える部品供給のモノづくりによって収益を担保しているのに対し、大田区エリアは、より付加価値の高い<精密型/試作型>のニーズをも得意とし、多分野のモノづくりに強く、先端産業に直結する試作・開発指向のアーバンファクトリー群であると位置付けられます。
細かいあれこれを削ぎ落して端折ると、上記が両エリアを分かつ差異の核心といえますが、やはり、東京一極の求心力に寄り添う大田区エリアは、業容がたゆみなくアップデートされていることは否めません。それを認識した上で、東大阪・中河内エリアが目指すべきは、これまでひたすら続けて来たモノづくりを、さらに泥臭く追及し尽くす営みの他にないと思われます。これをもう少し具体的にいうと、特定の企業系列に深く組み込まれるのとは真逆に、多角的な下請け関係や独立系の協業リンケージを張り巡らして、需要に応じ複数の工場がコラボするニッチを構築することや、短納期・多品種少量生産に加え、大手メーカーが内製できないような専門性の高い技術を深掘りする努力によって、価格低減圧力に負けないレジリエンス(強靭性)を身に付け、安売り競争のないブルーオーシャンに航路を持つことが挙げられるでしょう。いずれにせよ、東大阪・中河内エリアの中小企業が担うべきミッションは、日本(と世界)の製造業を下支えする役割と、それを通し、自らの生き残りを全うすることといえます。
生き残るとは、終わりなく永らえ続けることと同義です。「日本綿業倶楽部(綿業会館)」が100年近い歳月を越えてレガシーとなったように、大大阪黄金期のDNAを受け継いだ東大阪・中河内エリアの中小企業が、いつしか何らかのかたちでモノづくりの100年レガシーを遺すのでないかと、少々、飛躍するようなイメージが頭の中に逞しく湧いて来ます。
【追記】
「ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」とは、シェークスピアが書いた「ロミオとジュリエット」第二幕の台詞ですが、「八尾製鋲はどうして八尾製鋲なのか?」と問われれば、崇高な愛や悲劇性はカケラもなく、ただ「八尾(市)で創業したから」という答えがあるのみです。そのような次第で、今回のテーマであった<東大阪・中河内エリアの中小企業>とは、まさしく八尾製鋲にとっての自画像ともいえます。だいたい1970年代の前半、当該エリアの中小企業の内、業績が上手く伸び、敷地や設備を広げる意欲を抱いた事業所は、宅地化が進んだ創業場所を離れ、土地を取得しやすい南河内、または、隣県の奈良に移転する動きが活発でした。但し、本拠地を移して、距離は幾らか遠くなったが、馴染んだ取引相手との係わりを続ける事業所が多く、半世紀後の現在に至るまで、取引の絆が強く保たれているように見受けられます。実際、身近に付き合っている協力会社にしても、目下の住み場所はばらばらながら、元を辿るとほとんどが当該エリアで業を立ち上げた末裔です。つまりは、当該エリアのネットワークとは、決して域内だけで完結しているのではなく、すこぶる長い投射距離の広がりを持つ、と捉えてよいように思います。以上、八尾製鋲の社名に絡めて、少しばかり本文に補足を施しました。

