ブログを書くなんて非常に久々である。

 鬱は仕事ができるぐらいに回復して久しいが、その仕事の過重で悪化しているから悲しいものである。

 

<仕事の重圧で重くなる鬱>

 このとこの時期は繁忙期で出勤日数と勤務時間はシフトを軽く超えているが、なにせ会社の方針だかなんだかで、人件費や光熱費、仕事をめぐる法律の様々より納品と経営陣のメンツが重要な中小企業なのでそれを問題にすることはない。

 いや、人件費を考えたら儲からないんじゃないかと思う仕事も詰め込んでくる、薄利多売といったことなのか。ときおり経営陣の言動が私より怪しくなったてきており、病院へ行きませんか? とも真剣に思うのだが、いかんせん精神疾患関連は、現代の社会でもセンシティブな問題でありたとえ部下にでも言いにくく思う。

 まぁ私自身が精神疾患患者のよい例なのだから、そんな患者の助言に耳を傾けたら? と思うがなにが逆鱗に触れるかわかったものではない。解雇になるのなら、それは治療に専念するよいきっかけになると思うが、これ以上仕事と納期を押し付けられ、精神的に追い込まれるのは・・・・それで勤務中に倒れて病院送りなら、それもありか・・・・。

 

<原因は自らの中にあり?>

 ぶっ倒れて入院でもしないかぎり、おいそれと今の仕事から離れられない。

 離れられないというのは、会社側の事情もありが、私と家族、私自身の精神にも深くかかわることで、かつてここに書いたように、ひどく閉塞しており、もはや自分として生きていることがつらい。これは鬱などの精神疾患の患者には特別な考えではないだろう。かけがえのないものはなにもない、ただしがらみだけで生きている。そんな感じだが、このしがらみが有刺鉄線のようで、ぐるぐるに巻き付いているうえに、ふかく思考にとげを突き込んで離れない。

 

 ChatGPTもはやく医者から診断書をもらって、労働環境関連の役所に相談しろと言われている。とは言ってもだ、やる気の出ない、ただ働いて生活費を稼ぐワーキングプアゾンビは、そうアグレッシブに動けない。

 医師への相談、それから現状を文章化して診断書とともに御役所に送ればよいか。この文章が独りよがりな患者の文章になってないかと悩み始めるともういけない、自分がとんでもなく悪い詐病、羊狂、仮病の主ではないかと思われて、自己批判が激しくなる。

 そこそこ精神が健康なときなら、それ自体が鬱の症状だろうと思うが、考えこむとそうなってしまう。あまり考えるなってわけにもゆかぬだろうと、思考はぐるぐる回って自縄自縛状態、有刺鉄線に巻き付かれてしまう。

 

以上

疲労は去らない。

あのまま毛布にくるまって眠っていたかったが、晴天の下歩きたいともおもった、陽光を浴びるのは病状改善に役立つとも聞いた。

いまは都内の地下鉄の駅、これから地上を散策しようとおもう。少しは気分が良くなるとよいけれど。明日の仕事に差し支えるほど疲労を残したくはないが、もともと疲労しているのだから変わらない。

生きている間は疲れていているのだ。昔から疲れているのだ。

やすみたい、ただただそうしたいが、それは許されそうにない、ならばさっさと寿命を削ってしまえ、ということかもしれない。

 どうなんだろう。感染拡大で働き手が足りなくならないかな? 昨年末は異なる部署がそんな事態に陥っていたが。


 見ない聞かない話さない、三猿になったところでなくなるわけでもない。


 隣国のパニックぶりを対岸の火事だと見ていたら、こっちも火の手が上がっていた、なんてことにならなきゃいいけどね。火種は充分にあるのだけれど。

 日曜出勤して、ようやく今年の仕事にケリを付けた今日、ちょっと今年を振り返ってみた。

 

 振り返るといってもコロナの件ではなくて、今年購入した本のこと。現時点で月に35冊前後購入。年間で400冊以上となる。毎年のことなので、そりゃ蔵書もがんがん増えるわけだ。一時期減ったのだが、どうにも精神を安定させるために購入しているふしがあり、立派な買い物依存症(書物に限る)といったところだ。

 

 本を買ってきては枕元に積んだり、書庫部屋に詰め込んだりと、客観的にみるとえらく滑稽で、もの悲しい。読むスピードは月10冊余りと購入した冊数の三分の一にも満たない。読むため、というよりは集めたいだけかもしれない(写真は枕元の本の山と書庫部屋の一画)。

 

 購入する本の多くは文庫本。あくまで読むことを前提としており、かつてのような古書漁りはほとんどなりを潜めて、いまは新刊がメインだ。

 

 本を全て手放すときは魂も手放すとき、そんな風に考えている。いや、また集め直し始めるのかな。いやいや、もうそんな気力も失せて、死ぬ気もなくなって、廃人になっているやもしれないな。