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前略おふくろ様。
ご無沙汰していましたが、俺生きてます。

昨日、目が覚めると自分の手が目の前にありました。このバンコクの、俺の棲家は言ってみれば下町で、朝から結構うるさい音が窓から流れ込んでくるわけで、俺はその音で目が覚めたらしく。でも体は急には目が覚めない。窓から差し込んでくる光をいつの間にか手だけで遮っていたわけで。びっくりしました。死んだ親父さんの手を思い出しました。あなたのようにいつまでたっても手入れをされた女の手ではなく、ふしくれて、しみができ、しわと血管とが目立つ汚い手です。

前略おふくろ様。俺ももうそんな年月を生きてしまったわけで、だから、自分の手の醜さにやっと気がついたわけで。手だけは俺の気持ちにかまわず正直に歳をとってきた。たとえばここに一本の道があるとする。道路があるとする。鉄道があるとする。それを辿ってみる。20年ぶりか、30年ぶりかで辿ってみる。そして気がつく。もうあの頃の道はないことに気がつく。そしていまの旅人たちに出会う。彼らはいまの目で初めてその道を見るわけで。いまのことしかわからないわけで。彼らの目でいまの俺の手を見るわけで。
前略おふくろ様。彼らは知りません。あの頃、あの町がもっと暗かったこと、暗いけれど怪しく魅力的だったこと、森が高く濃かったこと、あぜ道が長く農夫の姿さえまれだったことを知りません。結局、いまからしかすべては始まらない、その繰り返しです。
前略おふくろ様。休みがとれたら飛行機に乗ります。乗って会いに行きます。それまで元気でいて下さい。
                        2017/05/05