三家分晋は資治通鑑の始まりであり800年近く続いた周王朝に終止符を打った事件でもあった。
中国の周の時代では、封建制度を実施していたので。
周朝は封建制度を通じて、宗族(王族)、功臣(功績のある大臣)、前朝の貴族などを各地に封じ、周王室を中心とする支配ネットワークを形成しました。支配する土地をもらった諸侯は封国内で高度な権力、自治権がありましたが、周王に対して献上や兵を使わせるなどの義務を負いました。この制度は初期において周朝の支配を効果的に強化しました。
簡単に言うと今のアメリカのような合衆国みたいな感じです。
ただし、中央政権には絶対的な権力を持っていました。
それは各地の統治者を任命する権利と兵を使う権利。
そのシステムは問題なく行われていましたが、三家分晋によって崩壊します。
三家分晋(さんかぶんしん)は、中国春秋時代の末期(紀元前453年)に発生した、晋(しん)国の三大貴族・韓(かん)氏、趙(ちょう)氏、魏(ぎ)氏による晋国の分割事件である。これは戦国時代の始まりを象徴する出来事の一つとされている。
晋国は春秋時代において強大な覇権国家の一つであったが、内部では貴族間の権力争いが絶えなかった。特に、晋国の大夫(貴族)たちは次第に強大な勢力を持ち、国君(公)の権威は形骸化していった。その中でも韓氏、趙氏、魏氏の三家は力を蓄え、晋国の実権を握るようになった。
晋国では、三家のほかに智(ち)氏(智一族)という強力な貴族も存在した。しかし、「智伯(ちはく)瑶(よう)」(智家の主)は野心的で、他の三家を圧迫しようとした。紀元前453年、韓・趙・魏の三家は同盟を結び、智氏を攻撃した。智氏は滅亡し、その領地は三家によって分割された。この結果、晋国の実質的な統治権は三家に移り、晋国の国君はもはや名ばかりの存在となった。
紀元前403年、三家は周の天子(王)から正式に諸侯として認められ、それぞれ韓(韓氏)、趙(趙氏)、魏(魏氏)の三国を建てた。これにより、晋国は完全に解体された。
周の王がこれを認めたことによって礼崩楽壊となりました。
礼儀礼教が崩壊して、楽(秩序)が崩壊したということです。
簡単に言うと周の天子、中央政権の最高統治者が人事権を放棄したのです。
自分の支配下の自治国でクーデターが起きたにも関わらずそのクーデターを起こした反乱者に土地を与え、そしてその土地上の最高支配権を認めたので、これにより後に各地で周の王の支配力が衰え、時代は大戦国時代に入ります。
