僕がブログを再開した理由というのは、

最初にも書いたけれど、

最近、「物語」が楽しく読めるようになってきた、

というのが最大の理由です。

 

小説というのは、モチーフがあったとしても、

フィクションである、というのは大前提です。

高村薫とか、山崎豊子みたいな、

下地がはっきりわかっているものであったとしても。

だからこそ、無責任に楽しんで読めるものなんだと思います。

 

掲題の本が、ではないですが、

確かに、本を読んでると「設定が甘いな」とか、

「えらく都合いいな」とか「リアリティに欠けるな」とか、

思う時はあります。僕も人間なんで。

 

でも、一つテーマを立てて、

最後まで物語を導き出す、

というのは、並大抵でできるものではない

と思います。

 

だから、どんなに個人的に「つまらない」と思っても、

そんなことは、口が裂けても言えないな、と思うのです。

もし、自分に合わない、となったら、

「合わなかった」とはこのブログに正直に書くかもしれませんが。

 

重ねて書きますが、掲題の本のことではないですよ。

 

人って、「相対的」なものだな、と思います。

他人が思っている自分と、自分が思っている自分っていうのは、

すごく大きくズレているものです。

 

特に、「他人」というのは、

もちろん自分がその「他人」の立場に

なったときも含めての話ですが、

情報処理を早くするために、

「レッテル貼り」をしてしまいます。

 

純粋に物語と向き合うのではなく、

勝手に決め込んだ作家さんのイメージ、

作風の「レッテル」で接している方も多いのだ、

と最近知りました。

 

あるいは、自分の経験や思想の枠の中で、

これは違う、とか、これはつまらない、

リアリティがない、とぶった切る人も結構いるんだな、と。

 

特に、テクニカルな部分でいろいろ言う人とか、

匿名でレビュー書いて公開して楽しいのかな?

どういう気持ちで書いてるんだろう?

他人のために、と思っているのか、

俺はこんなにわかってるぜ、と言いたいのか。

 

それは人である以上仕方がないのだろうとは思し、

正しいとか、間違ってるとか主張したいわけではなく、

単純に、「自分はそう有りたくないな」と思うのです。

 

何故なら、新しい発見の機会を、自ら失わせてしまうから。

 

僕がつまらなかろうが、他人がつまらなかろうが、

本はそこにあるのです。

面白いのも発見だし、つまらないのも発見です。

途中で無理、と思ったら読むのやめればよいのです。

そういうネガティブな方向性で、僕ごときの主観だけで、

バイアスを掛けていくような発信は、

できる限り避けたいと、このブログを書いてて思ってます。

 

人間ってのは、そんなに単純な人はいない。

あらゆる人に、あらゆるその人だけの物語がある。

見えているのはほんの表面だけで、

もっと、多面的で、奥行きがあるものだと思います。

 

僕は別に、神や仏になりたいわけではないけれど、

やっぱり、他人の物語、その存在をを尊重できる人でありたい、

と心から思うのです。

 

人はあるがままで十分素晴らしい。

 

素直な人間は時に騙されるのかもしれないけれど、

僕は素直に今、物語を楽しんでいる。

フィクションはフィクションなりに。

ノンフィクションはノンフィクションなりに。

 

小説に限定しても、世の中に何万、何億といった本があるでしょう。

全てと出会えるわけではないです。

でも、せっかくの「縁」で出会ったからには、

途中で別れることがわかっていたとしても、

一期一会と思って大事にしたいな、と思うのです。

それは、本も、人間も同じ。

それぞれの物語の表も裏もしっかりと楽しみたい。

 

また、一段と、

本を読むのが楽しくなってきた今日このごろです。

 


 

絶唱 湊かなえ

(新潮文庫)

 

絶唱 (新潮文庫)

 

遠く離れたトンガという国を縦軸に

阪神大震災を横軸に描かれた連作短編。

まずは読むのがよいと思います。

あとがきまで読んで、

初めて全部落ちると思います。

 

僕が阪神大震災を経験した時は

確か17歳だったと思います。

大阪の私立高校に通ってたので、

友達が被災したり、いろいろありました。

 

湊かなえ=イヤミスと定義している人は、

がっかりするのかもしれないですが、

僕は、本当にいい小説だと思いました。

 

一応、書く前に他人のレビューを

読むこともあるのですが、

そういう意見が散見されたので、

本文みたいな内容になったのです。

人それぞれだから

別に僕の意見を押し付けるつもりはないけれど。

 

湊さん、より一層好きになりました。