伊勢物語現代語訳 第一夜 「過ぎ去らぬ男」



「な、なんであの人が・・・」


麗子は宴会場のバックヤードで頭を抱えていた。


「ねえどうしようあなた・・・」


「どうしようって、行くしかないじゃないか。向こうは社長代理なんだから」


「もうなんで断らなかったの。このまま出ていったら気まずいし、恥晒しもいいとこだわ・・・」


「だから頑なに断ったって白けるだけじゃないか!しかも社長代理直々のご指名だよ?みんな僕らの事情を知らないんだし、逆に怪しまれる」


「具合が悪いとか、二次会の準備行ってるとか、理由はいくらでもあったじゃないの・・・」


「麗子お前はエリアマネージャーだろ?仮にも接待側のリーダーだけが、社長代理のいる宴会場から席を外すのって、ありえない。しかも直前まで乾杯の音頭までとって人が・・・」


「もういいわ!!もう・・・」


泣きたい気持ちで一杯だった。



「第一なんでそんなに嫌がるんだよ?そりゃ俺だって社長代理とあういう関係だとわかった時はびっくりしたし、同じ会社の中気まずいだろうなとも思ったさ。


でももうとっくに昔のことじゃないか。幸いほかの人間は知らないようだし、彼は本当は何がしたくて君を指名したのかわからないけど、行って挨拶して、酌の一つでもしてやり過ごせばいい。もういい歳の大人だろ?仕事でこれ以上の修羅場なんて、お前はいくらでも踏んで来たじゃないか」



(それとこれとは・・・違うの)


進退両難。


麗子は再び頭を抱えた。



まだ同族色の強い中堅メーカーの大分支社に勤める麗子にとって、本社幹部の視察と代理店の表彰会、平たく言えば宴会の準備に忙殺されていたここ数日は、入社以来でもっとも多忙な時期だったかもしれない。


自分の上司であり、夫でもある裕也は、いわば今回の視察と宴会部長の直接の責任者なわけだが、ただでさえ忙しい彼の力になりたく、麗子は通常業務をこなす傍ら担当の代理店への根回し、打ち合わせ、会場の選定や幹部らの日程調整に走り回り、いつもと同様公私にわたって夫をサポートした。


更に今回は宴会に社長代理の重役が来るそうで、なかなか気の抜けない日々が続くものの、もともと仕事好きだった麗子にしてみれば旦那との連帯感を感じ、一緒に走り、疲れ、忙しさを駆け抜くのは、いつにもまして充実感と、家族らしい幸せを覚えた時間でもあった。


そして視察もつつがなく終わり、最終日の代理店表彰会を迎える。最後の仕上げ、もとい打ち上げ。


社長代理は遅れるとかなんとかで、宴はエリアマネージャーの麗子が音頭をとって乾杯。後はもう、とにかく思いっきり楽しもう!


そう思った矢先、事件は起こった。



わっと、会場の入口付近で歓声があがり、近くに立つ人がにわかにざわめく。


「どうぞ!」という司会のハイテンションな上ずり声とともに、品の良いグレーの背広の男が一人、軽快に壇上を駆け上がる。その姿からはまるで年齢を感じさせず、むしろ働きざかりの少年を思わせる若々しさに溢れていた。


男はマイクの位置を少し傾けて、恥ずかしそうに後ろ頭を掻きながらもややおどけた口調で挨拶の口上を述べた。


「えー、皆さんそのままで結構です。どうもこんばんは。有原です。遅れまして申し訳ありません」


社の元副取締役にして、海外事業を一手に仕切る敏腕部長、有原拓武。今回は社長の名代役として支社視察と代理店表彰会のために東京本社から飛んできたのだった。


それまで壇に近い会場の壁際の椅子で久しぶりに顔を会わす同期らとささやかな女子会に興じていた麗子だったが、男の顔を見た瞬間呼吸が止まる思いがした。


(え?うそ・・・でしょ・・・)


「しかしやっぱり秘書の意見はちゃんと聞くべきでしたね。急ぐ時はスカイマークを使ってはいけないと」


会場のあちこちからクスクス笑いが漏れる。


成熟した壮年男性に相応しい、微かな白の交じる髪という出で立ちだったが、白皙のニコニコ顔の下からは野性的な覇気が滲む好漢のオーラを身に纏う。


歳をとっても、その姿は見間違いようがなかった。



(あの人だ・・・)



あの人は、


彼は、


麗子が五年前に離婚した、元夫その人だった。



心拍が、速くなる―――。