ある時、近所のこどもたちが遊ぶのを見てふと、大学時代に宗教学を学んでいた私は旧約聖書のバベルの塔のくだりを思い出したことがある。

 


思い上がりのため神によって言葉を散り散りにされた人間は、互いに意思疎通が出来なくなり、混乱のうちに塔の建設も頓挫に終わったという話なのだが、こどもたちを見ていると、言葉の違いなど彼らにとっては大した問題ではないだろうなと思ったものだ。

 

言葉の違う大人同士なら、意味ある言葉を通じさせよう無理に頭を働かせるところ、こどもは言葉や文字で自分を縛ったりしない。お互いの言葉に関わらずすぐに打ち解けてしまう。こどもはこどもで、もっと裸のままに感覚や雰囲気の付き合いを楽しんでいるようだ。

 


モスクの礼拝所でムスリムたちがメッカの方角に向かって一斉に跪いた時、なんと尻を聖地に向けて堂々と最前列に立つ少年に出くわしたことがあった。けれどもそれが当たり前の出来事のように、誰も咎めはせず、跪きなさいと注意する大人もいなかったのである。

 


神に頭を垂れる大人たちを澄まし目で見下ろす少年は、確かに自分の時間の中を生きているらしく、人間の一挙手一投足まで厳しい戒律で縛りあげるアッラーをもってしても、どうやらこどもにだけはお手上げようだ。