Jun 12, 2010 茅ヶ崎のやんふぁ....

雨やガーン

室内でおとなしくしているやんふぁやしょぼん

リンリンリリン リンリンリリン リンリンリン

メールやなくて電話や…

2年ぶりのお客さんから予約の電話やニコニコ明日は飛び込めるぞ~チョキ

遅れていた和賀江島のお話

Wakae-jima.jpg

相模湾、藤原八幡宮前の鎌倉材木座に位置する和賀江島には歴史があったんやビックリマーク

現存最古の港湾施設で国の史跡に指定されていたんやって目

そんなことも知らずに撮影最中はらチャンは「浅いやんかって島の上に立って水面から顔を出してしもた」叫び

「ごめんなさい<m(__)m>」

時は1232年鎌倉幕府時代、相模湾の交通量は増加し、このあたりの浜は水深が浅く事故も多発していた。

そこで葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出たんや。

それを北条泰時が後援して泰時の家臣である尾藤景網、平盛網、諏訪兵衛尉らが協力したんやって。

1232年8月14日に着工して、海から運んできた相模国西部と伊豆国の意思で工事を進め1932年9月2日に竣工。

鎌倉時代半ば以降に忍性が極楽寺の長老となって和賀江島の敷地所有と維持管理他、関所を出入りする商船から升米という関米を徴収することになったんやビックリマーク

江戸時代の和賀江島は、石蔵・舟入石蔵と呼ばれ材木座や小坪村の漁船の係留場として使われていた。

1750年頃に小坪村が島の西南方に新出入口を開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で1764年に相論が起きた。翌年、出入口の幅を9尺とし、3月から9月まで7ヵ月間は口を塞ぎ、残りの10月から2月までの5ヵ月に使用するという条件で和解したそうや。

藤原八幡宮修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊し、1696年から1781年に八幡宮とともに島の修復作業が行われた。1826年の八幡宮修復時の満潮時には‐1m以上海中に隠れるようになってしまい材木座村が修復願いを出したんやって。

はらチャンが立った時もちょうど満潮時で水面がおへそよりちょっと上やった。

いや~知らなかったな!?
やんふぁのブログ-NHK水中カメラ

ケースだけでも10,000,000円やって
やんふぁのブログ-NHK水中ライト

Boatからカメラマンに渡すのに震える手を押えてたんや。


Bybe 休暇中のはらチャンでした。。。。