小説『騎士団長殺し』雑感  その2 | 谷中の案山子〜Ameba支局

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小説『騎士団長殺し』雑感  その2

 

 

『騎士団長殺し』雑感その1からの続きです。

雑感その2では心を鬼にしてちょこっとケチなどをつけてみたいと思います。

 


登場人物である雨田具彦の描いた「騎士団長殺し」という絵画が出てきます。
この絵画が主人公の根底を揺らがしてしまうほどの圧倒的な力を放っているというふうに小説では描かれています。「暴力性」「荒々しさ」、世俗から遥かに「昇華」したもの、というのが主人公のその絵に対する評価です。ただ、主人公がその絵に震撼している気分だけは伝わってくるのですが、絵画「騎士団長殺し」自体の迫力はこちら側には伝わってきません。もちろん絵画ですから実際にその絵を見てみないことにはお話しにならないということもありますが、そこは文学ですからねぇ、視覚的な迫力も深淵さもすべて言葉で伝えなきゃならない。でも言葉で伝えきることはできてないと思います。で、それを補うためにとはまでは言いませんが(笑)、村上春樹は絵画「騎士団長殺し」を描く契機につながる画家「雨田具彦」の隠された来歴を語っていきます。

 

 

ひとつは、ナチスドイツのオーストリア併合の時代にウイーンへ雨田具彦が留学していたときのこと。雨田具彦にはオーストリア人の恋人がいて、その恋人は反ナチの地下抵抗組織のメンバーでした。彼女たち地下メンバーはナチ高官への暗殺計画を企て、未遂に終わり、雨田具彦の恋人を含め全員が処刑されていまいます。この体験が雨田具彦に生涯のあいだ拭えない傷痕を残します。

 

もうひとつ、あります。雨田具彦には弟がいて二十歳のとき戦争に徴兵され中国の南京へかり出されます。そこで上官の強制で中国人捕虜の首を「首を斬るのに慣れる」まで斬らされ、かの「南京大虐殺」の加害者になってしまうわけす。その弟は帰国後、自殺します。小説の中ではその自殺は「人間性を回復するための唯一の方法」だったと書かれています。これも当然に兄である雨田具彦に衝撃を与えます。


反ナチの地下組織のメンバーであった恋人の処刑。「南京大虐殺」に加担して、帰国したあと自殺した弟。このふたつが雨田具彦に絵画「騎士団長殺し」をのちに描かせた最大の要因とされています。

 

悲しい体験が人を何かへ向かわせたとか絵を描かせたとか生き方を変えさせたというのは、大いに有り得ます。誰しも思い当たるところがあるはずです。個人のきわめて通常の姿です。

ただそのことと、作家が表現の中に反ナチ地下組織メンバーの処刑やら南京大虐殺やらをわざわざ持ち込むということとは、意味合いがまるで違ってきます。そこでは「個人のきわめて通常の姿」が遠ざかっていき、「公」の世界(社会性と言ってもいいです)が前のほうに迫り出してきます。と同時に、文学というものが「公」の世界(社会的・歴史的事象)とどう関わっていくか、あるいは関わっていかないかが問われてくるところでもあります。

 

 

反ナチ地下組織メンバーの処刑と南京大虐殺。何故このような舞台設定が必要だったのか。
これもザックリ言いますと、社会的・歴史的事象の衝撃性が、文学表現の衝撃性に繋がると村上春樹自身が思い込んでいるからです。事実の衝撃力が文学表現の衝撃力に繋がると思っている。しかし文学においては、そうなってないです。いくら衝撃的な社会的・歴史的事象を持ち込んできても、文学の中での衝撃性をちっとも保証しないです。文学は文学じたいの言語表出を通してしか、先に述べた衝撃性もを含めたさまざまな文学的なインパクトを生み出すことはできません。村上春樹はそのへんを勘違いしてます。福島の3・11のことも少し出てきますが、福島の3・11をそのまま持ち込んでも闇にも光にもなりません。もし小説の中に3・11を登場させるのなら、3・11をあくまで文学的営為として立体的に掘り下げていくのが不可避だということになります。

 


なので、けっきょく絵画「騎士団長殺し」の「素晴らしさ」は最後まで分からずじまいでした。どうして地下抵抗組織メンバーの処刑とか南京大虐殺を持ち込んだのか。違うかたちはいくらでもあったはずなのにと思いますね。村上春樹はどうも「社会事象」と「自分」との橋の架け方が無造作ですね。無造作すぎます。とくに数年前から長編を書くときの弱点として露出しはじめてます。どうせ上手く橋を架けれないのだから「社会事象」など見向きもせずに、「自分」の中の井戸だけを掘っていけばいいじゃないのと無責任にも言いたくなっちまいます。

 

 

そして「雑感その1」で少し触れたラストの不可解さです。「あれよ、あれよ」といった感じで終わってしまい、肩透かしを食らった気持ちになります。僕の読解力のなさなのかもしれないですが、どうもよく分からない終わり方なのです。主人公が地底世界を抜け出てきて、失踪していた少女も帰ってきて、別居中だった妻と復縁し、途端に世界全体が青空におおわれていくように、主人公の心が「平穏」にまるごと包まれていく。あれだけ、思い悩み、葛藤していた主人公の心が何かを悟ったように平穏な世界に包まれていきます。いったい何を悟ったのか。何かでもって自分の心と折り合いがついたのでしょうが。どのように折り合いがついたのか僕にはさっぱり分からない。なにしろ気持ち悪くなるくらい平穏の世界に体が溶けていってしまってる。ま、このへんは僕の読み違いかもしれないし、何かを読み落としているかもしれないので、ラストのあたりをまた再読してみましたが依然としてあの「平穏さ」は不可解のままでした。

 

なんとなく「平穏」のニュアンスになっていそうなことを語る場面があります。


「ただ無心に慣れた技術を駆使し、余計な要素を何ひとつ自分の内に呼び込まないこと。イデアやメタファーなんかと関わり合いにならないこと。谷間の向かい側に住む、とても裕福な謎の人物のややこしい個人的な事情に巻き込まれたりしないこと。隠された名画を白日のもとに晒し、その結果狭くて暗い地底の横穴に引きずり込まれたりしないこと。それが現在の私が何より求めていることだった。」(下巻522ページより)


誰しも平穏に過ごしたいし、ややこしい事情に巻き込まれたくない。当たり前なことです。悪いこっちゃないです。しかし、こんな当たり前なことに到達するために、どうしてあのような大それた舞台設定をあれこれ用意しなければならないのか。大仰過ぎるでしょう、というのが僕の感想です。「苦悩する知識人」のとても通俗的なパターンのような気がします。これじゃお前の叡智が根本的に問われちゃうぜと言いたくなるようなところだと思います。春樹の作品はもともと、物語の意味性だけで読んでしまうとその魅力がおおかた失われてしまうってところがあります。意味で読むよりもリズムで読んだほうが良い読み方のような気がしてます。だからラストの不可解さなどもあまり考えずに春樹の与えたリズムに乗っかったまま読み終えたほうがいいのかもなのですが、なにしろ彼のリズム自体が失速してますから、この他に読みようがないぜということになっちゃいます。


いずれにしても評価が難しい作品になってます。
文の隙間に滑り込ませる彼の喩法はあいかわらず瑞々しく、名ボクサーの軽いフットワークをみているように心地いいものです。センスの良さなのだろうし、長年の職人芸の技ともいえます。
なにしろ「書く」ということにたいして誠実な人ですからね。実践の中でこれだけ自分を追いつめている作家も珍しいです。
願わくば「正義感」というものが彼の体からパラッと剥がれてくれたらいいのになぁと思います。これは悪い意味での「正義感」です(笑)。そのへんが剥がれ落ちてくれたら随分と面白くなるのになぁと漠然と思ってます。
彼はかつてこのように語っていたことがあります。


「息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システム を作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる」(『走ることについて 語るときに 僕の語ること』より抜粋)


「強い毒素を正しく効率よく処理できる」。それは少なくとも凡庸な社会的正義感ではとうてい処理できないと思うのです。