「谷中庵読書録」は引き続き休載しますが、書評は「谷中庵日録」に随時、掲載しています(カテゴリ「本と雑誌」)。
 「谷中庵読書録」は、しばらく休載します。読書をやめたわけではないのですが、記憶を失ったパソ子(わがPC)が「少し休ませて下さいよ」と疲れ気味のようなので。○○と小人は養いがたし。


白石良夫

かなづかい入門


 <歴史的仮名遣vs現代仮名遣>と副題にあるが、今どき「現代仮名遣をやめて歴史的仮名遣に戻せ」などと叫ぶ人がいるものだろうか?


 いるのですね。ただの頑固ジジイに限らず、例えば文壇の大御所・丸谷才一先生のように、新聞や雑誌では仕方なく現代仮名遣で載せられるのをしぶしぶ認めているが、日本語の伝統と本質にうるさい文学者として「自分は新仮名遣では絶対に書かん!」という人が。


 かく申す谷中庵主人も、内田百閒の文章を崇拝しているので「百閒の文章は、やはり旧仮名で読むに限る」などと信じて疑わずにきた者である。


 そういう連中は、仮名遣というものの歴史と本質が分かってない! と著者は言う。藤原定家や契沖による仮名遣との格闘の歴史を、微に入り細を穿って解説している。少し感情的になりすぎてないか? と感じさせられる部分もあるが、それには理由があるようだ。


 この人は文部科学省の主任教科書調査官。国語教科書の検定に従事しながら、研究活動を続けてきた。今年あたりが定年らしいので、これまで苦労させられてきた<言葉を専門にあつかう種類のひと、たとえば頭のかたい国語国文学者や国語教育者、あるいは言葉に厳しいと自負する文筆家>への憤懣が、一気に爆発したのではないかと思われる。


 仮名遣というものは、確かに考えすぎると分からなくなってくる。。<さしずめ>は<さしづめ>でなくていいのか。挨拶を<こんにちわ>と書くべきなのか<こんにちは>と書くべきなのか。


 いい意味でも悪い意味でも「言葉」にこだわりのある人間には、とても刺激に満ちた本である。(平凡社新書、740円+税)


網野善彦対談集

「日本」をめぐって


 いかなる事情のありけるにや、普通の新書で税込み1680円というのは高くないか? 本屋のレジで「エッ?」と思ったが、後の祭り。


 アミノ酸(じゃなかった網野さん)は、その生前に一度は会っておきたかった歴史学者だが、機会がないまま4年前に没した。日本の歴史について、日本人が持っていた「思い込み」を引っくり返してみせた人だ。


 樺山紘一、三浦雅士ら各界の6人との晩年の対談を収めている。気鋭の論客・小熊英二が相手の「人類史的転換期における歴史学と日本」が最も面白い(面白いといっても結構、難しいんだよ)。


 よく切れるカミソリみたいな小熊が、アミノ酸(じゃなかった網野さん)の本を読破した上で彼の来歴に鋭く迫るくだりは“検事調書”みたいな迫力がある。


 ところが、自説が学会に与えたインパクトについて、この“被疑者”は「考えてやったことではありません」「それは褒めすぎです」と、ノラリクラリ。カミソリ相手に「どこからでもかかってきていいよ」という、マサカリみたいな器の大きさを感じさせる。


 刺激に満ちた1冊。しかし新書にしては高いよ。(洋泉社新書、1600円+税)


森英介

風天 渥美清のうた


 <お遍路が一列に行く虹の中>


 フーテンの寅こと俳優・渥美清が生前、何十年にもわたり「風天」と号して、いろんな句会に参加していたことが分かった。有名人やマスコミ関係の句会だから、今ごろ「分かった」というのも間が抜けているが、まあ句が一般には注目されることがなかったわけだ。


 <ゆうべの台風どこに居たちょうちょ>

 

 著者は元M新聞記者。俳人・風天を知る有名・無名の人々に取材し、出所の明らかな218句を探し当てて紹介している。句友だったイラストレーターの和田誠が開口一番、「この企画はよけいな記述や解説を加えず、風天の句集として出すべきだ」と言ったそうだが、あいにくそうはならなかった。


 <乱歩読む窓のガラスに蝸牛(かたつむり)>


 218句すべてに、俳人の石寒太(いし・かんた)が4行ぐらいの短い解説を付けている。

 

 <村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ>


 渥美清という人間の独特の感受性、考え方がよく伝わってくる。放浪の俳人・山頭火と尾崎方哉に惹かれていたそうで、早坂暁脚本のドラマに主演する話がありながら実現しなかったのは、くれぐれも残念だ。


 <テレビ消しひとりだった大みそか>


 彼は「孤独」ということを静かに味わうのが好きだったのだろう。このくらいの句を詠むアマチュア俳人はほかにもいるのだろうが、あの顔と声に昔から映画で親しんできた(今も)だけに親戚の“おいちゃん”の遺作を読むようで、グッときたりシンミリさせられたりする。(大空出版、1714円+税)


日下力

いくさ物語の世界


 いつまで平家物語に捕らえられているのか、と言われるだろうが仕方がない。岩波新書の最新刊が、よりによってこの本だもの。


 副題「中世軍記文学を読む」。取り上げているのは、時代順に「保元物語」「平治物語」「平家物語」「承久記」の4作品に拡大する。書かれた物語として定着したのは4作とも大体同じ時期らしいが、内容は前後70年以上にまたがっているので、話がその時空を行ったり戻ったりすると登場人物を思い出すだけでも大変だ。


 <いくさの物語は、歴史事実を伝えようとするものでは決してないことを、充分に知っておく必要があろう。言葉により非日常的空間を作出し、そこにさまざまな人々の生の曲折を、その言動とともに描き込み、享受者の心を揺り動かして異次元の世界へ誘引しようとする、そうしたものとして物語は企図されている>


 これが、著者の基本的なスタンス。「吾妻鏡」や「玉葉」の記述を仔細に検討しながら、4軍記のいろいろな場面がどういう「企図」によって描かれているかを考察する。人気があって有名なシーンを「これは虚構である」と一刀両断されると、何か鼻白むというか寂しい気分にもなる。


 が、物語の作者たちがテーマに沿って当時の読者の関心をどう引き付け、どう納得と共感を得ようとしたかという、その魂胆というか思惑がとても説得力を持って再現されている。感心させられる指摘がいくつもあった。(岩波新書、740円+税)


木下順二

古典を読む 平家物語


 かつて熱中した古典文学の関連本を読み始めると、際限がなくなる。♀よりも♂に顕著な一種の“更年期障害”とでも申しましょうか。


 中公新書の『平家物語』はなかなか面白かったが、いま一つ重みに欠けたので図書室を巡回していると、書棚の隅でこの本が“呼んでいる”気配を感じた。


 読みだしてすぐ「ああ、この年になったワシはこういうのが読みたかったんだ!」と悟った。本の背表紙というものには、そういう魔力がある。


 故・木下順二は何よりも『夕鶴』で高名な劇作家だが、平家物語への没頭ぶりを結晶させた『子午線の祀り』を忘れるわけにはいかない。若いころは分別がなくて舞台を見る機会がなかったワシも、戯曲は読んでいる。優れた歴史家の目が「冷徹」だとすれば、優れた文学者(芸術家)の目には「情熱」がある。


 平家物語について、歴史家が著した名著が石母田正『平家物語』(岩波新書)であり、文学者が書いた名著は木下順二『古典で読む 平家物語』だということになると思う。


 俊寛、文覚、清盛、義仲、義経、知盛。文覚だけワープロ変換不可だったが、一般の知名度もそうなんだろう。個性あふれる6人の「人間」に脚光を浴びせながら、著者は平家物語の全体を語ろうとする。いや面白いの面白くないの(どっちだって?) こういう場合は「面白い」という意味に決まっているのです。


 誰が誰やら分からないという人は、その辺の芝生で休んでて下さいね(このブログはウケを狙っているわけじゃなく、単なる備忘録なので)。


 読み終えて最もクッキリと人物像が立ち上がったのは、やはり平知盛ですね。壇ノ浦で迎えた最期に彼が口にしたという有名な言葉の奥底に、本当はどういう意味がこもっていたか。木下順二には分かったんですね。と、ワシは(勝手に)理解して大いに納得したのです。(岩波現代文庫、900円+税)



堀井令以知

ことばの由来


一見すると、よくある雑学本。よく読んでも「ああ、こういう本は随分いろいろ読んだ」という感は拭えない。


 「どっこいしょ」「ひょんなこと」「へなちょこ」・・・・<日常生活でなにげなく使っていることばや言い回しを取り上げて、その由来を丁寧に説き明かす>。ずいぶん読みましたぜ、この手の本。


 ところが、何ひとつ記憶に残ってないんですね。テレビのクイズ番組同様、正解を知った瞬間は「へ~!」と感心するのだが、次の瞬間には忘れてしまう。1週間後にでも同じ質問をされれば、同じ誤答を繰り返す。


 これは著者の責任ではなく、明らかに読む側の問題だ。この本は、よくある雑学本と違って言語学者が自分の研究成果をギッシリ詰め込んだ本なので、読み流すには惜しい。いちいち質問してみたくなる。


 こういう本は、借りて読んで図書室に返してしまえば読んだ意味がなくなるので、机上に置いて辞書を補うために常用すべきものだと思う。


 「飲んだくれ」と「へったくれ」の共通点。「酔いどれ」と「どら息子」の関係。他人事とは思えない言葉に、読者は特別な関心を抱きながら読む。「ほほ~」と思う。とても、ためになった。


 しかし図書室に返せば、読んだ意味がほとんど無に帰する。借りっ放しにしようかな(そうもいかんな)。岩波新書、700円+税。


板坂耀子

平家物語


 「平家物語」と申しましても、あの軍記物を原文で読み通したというのではない(若いころは、そういう無謀なこともやったもんだが)。副題「あらすじで楽しむ源平の戦い」。


 古典文学などほとんど読んだことがない今どきの学生らに、基礎知識を持ってもらうために書かれた「入門書の中の入門書」です。ワシは日本の古文では「平家物語」が一番好きなので、今さら入門書でもないのだが、なにしろ記憶力がメッキリ衰えてきておりましてな。ボケの進行を食い止める(遅らせる)ために読みました。


 しかし「平家物語」と銘打つ新書といえば、石母田正(いしもだ・しょう)の岩波新書があって、これはもう名著の中の名著。これ自体がすでに“古典”と呼べるくらいのもんだ。それに比べると、こちらは軽すぎる。


 いきなり「第一部 受験勉強的あらすじ暗記法」だから、ゲンナリした。が、頭の中を整理するのには重宝。平家物語は、それを琵琶法師の声で聞いたり目で読んだりした大勢の人々の気持ちが反映して出来上がったものだ、という説には首肯できる。


 悪玉の清盛・宗盛、善玉の重盛・知盛という図式も、読む側に分かりやすく、受け入れられやすいようにという作者の意図が感じられるという。いろんな名場面も、読者の「こうであってほしい」という期待によって脚色された部分が多いのではないか、と。


 古文に疎い若者に読んでほしいが、受験が済んだ人は「受験勉強的」に「暗記」してもしようがないだろう。平家物語を面白いと思うには、原文とは言わないが現代語訳、せめて小説やドラマで接触するしかない。しかし小説やドラマが大ヒットしたという話は久しく聞かない。この国はもうダメかも・・・・と、また暗い気分に浸ってしまう谷中庵主人なのです。(中公新書、760円+税)



益田ミリ

47都道府県女ひとりで行ってみよう


 奥付を見ると、あす25日になっている。新刊ホヤホヤだ。ウェブ上の連載をときどき読んでいたが、ご本人から送られてきたので喫茶店で最初から読み直した。


 最近は同じ幻冬舎から出た「すーちゃん」シリーズが大人気で、平積みにしていた本屋も多いから著者の名もかなり知られてきた。来年で40代に突入するというミリさんが、32~37歳の時に敢行した「毎月1回、47都道府県のどこかへ出かける」という酔狂な一人旅の記録だ。


 歴史にも地理にも文学にもあまり興味がないそうで、正直いうと「えっ、そんなことも知らずに行ったの?」とか「そこまで行ったのに、あそこには寄らなかったの?」といった「もったいない」感を受ける。


 しかし「なんのために、こんなことしてるんだろう」と自問しながらも、だんだんと「旅行」が「旅」へと昇華していく様子に、とても好感が持てる。毎回かかった費用の明細(豆乳80円など)を表で示してあるのもスゴイ。


 今でこそ谷中庵でクスブっているワシだが、かつては(ほとんど社費で)47都道府県はもちろん「3度以上行ってない県は富山と宮崎だけ」というくらい、行きたい土地へ行きまくった。が、旅は量ではない。


 フリーのイラストレーターにして川柳作家、夫も子供もペットも持たず三十路半ばを超える「わたしには、ひとり旅に出られない理由がないのだった」。あとがきに、何かジンときます。「人生とは、つまり旅だな」という真実を、彼女は芭蕉なんかとは違う入り方で発見したのではないでしょうか。(幻冬舎、1300円+税)