〈波涛会結成50周年 信仰体験〉2021年7月20日

  • 海と人生のロマンに生きる

帆船「日本丸」の初航海は、学会創立と同じ1930年。「2030年へ希望の海路を切り開いていきます」と渡部さん。温かな笑顔と誠実な人柄で、広布の大船を前進させる

帆船「日本丸」の初航海は、学会創立と同じ1930年。「2030年へ希望の海路を切り開いていきます」と渡部さん。温かな笑顔と誠実な人柄で、広布の大船を前進させる

 【東京都稲城市】夏本番の強い日差しに目を細めながら、帆船「日本丸」を見上げる一人の壮年。「懐かしいな……」。感慨深げにつぶやく渡部英利さん(70)=副支部長=の脳裏に、若き日の遠洋航海の記憶がよみがえってくる。(来月10日、結成50周年を迎える「波涛会」〈海外航路に従事する壮年・男子部のグループ〉の体験を紹介します)

● 海外航路のさなか2度の人命救助

 晴海埠頭に響き渡る出港の汽笛――。
 
 1969年(昭和44年)10月、帆船「日本丸」はハワイ・ホノルルを目指した。
 
 商船高校の専攻科生による遠洋実習。国立弓削商船高等学校(当時)に在籍していた渡部さんも乗船した。
 
 「帆船」の名の通り、帆に風を受けて走る「日本丸」から、エンジンの音はしない。聞こえてくるのは、波を切る音のみ。
 
 太平洋のど真ん中を進みながら、悠々と泳ぐクジラや、船と競争するイルカの群れに心が躍った。夜の帳が下りると、漆黒の空に皓々と広がる星々に胸を高鳴らせた。
 
 海のロマンを感じながら、休憩時間には、船の共用スペースで御書を開き、船内座談会も行う。
 
 「私には、小学生の時に頭部のけがが原因で発症した発語障がいを信心で乗り越えた体験がありました。それを親しくなった実習生に語り、信心を始めた人もいました」

 商船高校を卒業後、海運会社に就職。数々の海外航路に従事した。その中に、忘れられない出来事がある。
 
 81年5月。北マリアナ諸島の東方を航海中のことだった。操船を指揮する当直業務にあたっていた渡部さんのもとに船長が駆け寄ってきた。
 
 「付近のパガン島で噴火が発生したようだ。避難している住民の救助要請がアメリカ沿岸警備隊から入った」
 
 「すぐ向かいましょう」。渡部さんは即答した。
 
 島に近づくにつれ、真っ赤な溶岩が山裾に向かって流れる様子が確認できた。夜が明け、空が白み始める頃、救助艇を海面に降ろす。噴火はおさまっていたとはいえ、硫黄の臭いが鼻を突き、風に舞う火山灰が目にしみた。
 
 救助艇の艇長に任命された渡部さんは、“必ず救助を成功させる”と胸中で題目を唱え続ける。本船と島を2往復。50人以上の尊い人命を救った。

パガン島の火山噴火により地域住民を救助した(1981年5月、本人提供)

パガン島の火山噴火により地域住民を救助した(1981年5月、本人提供)

後日、米・国務長官が感謝のメッセージを送り、時の総理大臣も表彰状と記念の盾を贈った。
 
 実は、この年の3月にも、オーストラリアのグレートバリアリーフで遭難した家族4人を救出していた渡部さん。
 
 「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(御書1596ページ)
 
 「いざという時、即座に行動できたのは、訓練に加え、日頃から御書や聖教新聞で生命の尊さを学び、周囲に語ってきたからだと思います」

● 脳幹小脳炎を克服 68歳で海務監督に

 そんな渡部さんに、陸上勤務への異動辞令が出たのは、92年(平成4年)のこと。
 
 激しい国際競争にさらされる海運業界に身を置く船員たち。彼らの労働環境の改善と制度改正に向け、海員組合の執行部と共に交渉を担うことになった。
 
 業界、会社、現場船員とそれぞれに気を配る仕事は、骨が折れる。それでも誠実に粘り強く職務にあたった。
 
 当初1期2年との話が、いつしか7期目に突入していた。

 2005年の2月。インフルエンザを発症した。しばらく休養すると再び、九州、名古屋、千葉に停泊する船への訪問や交渉準備に奔走。
 
 だが深い疲れが取れず、横断歩道の信号待ちで柱にもたれかかる。顔色も悪い。やがて体調不良はピークに達し、歩くのもやっとの状態に。
 
 医師から紹介状をもらうも、病院は満床で入院ができない。自宅で連絡を待つ間も、症状が進行していく。
 
 手帳へのスケジュール記入は字が乱れ、食事も喉を通らなくなる。何よりつらかったのは、題目をうまく唱えられなくなったこと。口元がもつれ、言葉をはっきり発せなくなっていた。
 
 それでも、声にならない声で真剣に御本尊に向かった。

 もうろうとする意識の中で、強く祈った。
 
 “果たすべき使命が残っている。こんなところで、負けてたまるものか”
 
 人生航路に襲い来る荒波にもまれながら、思い起こすのは池田先生との出会い。
 
 四国研修道場で「紅の歌」が誕生した直後に開催された波涛会の研修会(81年11月)。
 
 記念撮影の合間にも、師匠は、一人一人の同志を包み込むように励ましていた。
 
 “人生の羅針盤”である師匠の姿を思い起こし、波涛会魂を燃え上がらせた。

 北里大学病院に入院したのは、4月中旬。精密検査の結果は、インフルエンザの後遺症による脳幹小脳炎だった。
 
 1カ月の入院、治療を経て、自宅に帰るとすぐさま御本尊の前に座る。
 
 一語一語はっきりと題目を唱えると、涙が込み上げてきた。
 
 この間、地域の同志は、題目を送り続けてくれていた。妻・富士子さん(66)=地区副女性部長=も、「必ずまた元気になれますよ」と、復活を信じて疑わなかった。

信心根本に、波乱万丈の人生を乗り越えてきた渡部さん㊧と妻・富士子さん。「どこにあっても同志の方々に守られてきました」

信心根本に、波乱万丈の人生を乗り越えてきた渡部さん㊧と妻・富士子さん。「どこにあっても同志の方々に守られてきました」

 退院後も懸命なリハビリを続け、7月に職場復帰。その後、関連のホテルに移り、総務部長、取締役として、65歳まで勤め上げた。
 
 「これから思う存分、広布の戦いに挑もう」。深い感謝の思いで、地区部長を務め、同志の励ましに徹した。
 
 一本の電話が渡部さんのもとに入ったのはそれから3年後の2019年。
 
 「海務監督をやってもらえませんか」
 着岸した貨物船の円滑な荷揚げに欠かせない重要な立場。

幻想的な朝焼けが広がる沖縄県うるま市。海務監督の仕事で訪れた(2020年2月、本人提供)

幻想的な朝焼けが広がる沖縄県うるま市。海務監督の仕事で訪れた(2020年2月、本人提供)

 68歳で就任以来、日本各地の港に赴き、11隻あまりの船を担当してきた。昨年来のコロナ禍で、しばらくは、自宅待機が続くが、いつ依頼が来てもいいように、足腰を鍛える。
 
 「一番の健康法は、学会活動です。これまでの全ての経験に深い意味がありました。地域の皆さんに私の体験を語り、少しでも元気になってもらえたら、これほどうれしいことはありません」
 
 海と人生のロマンに生きてきた渡部さんは今も「希望の航路」を力強く突き進んでいる。