今回も山本七平の本から

 

 

 

 

空気の研究の本の中に収録されています。

 

「空気」というわけのわからないものを語った後の、「水」です。

 

空気に水をさすって表現がありますが、その水について考察してます。

 

気分良く夢を語っている時に、誰かが「でも先立つものがねーなー」なんていうと、それまで膨らんでいた空気がしぼんでしまうなんてことはないでしょうか。

 

その余計な一言が水(通常性、日常生)です。

 

私たちを妄想の世界から現実に引き戻す言葉です。

 

日本は空気と水でどんな文化も取り込んでしまう。

 

外部から文化や考え方が入ってきても、

 

   ます、なんとなく輪郭がぼやけて

 

   形がくずえれて

  

   溶解して、影も形も無くなって

 

   名前だけが残って、実体は消える

 

という空気と水の消化酵素に全て日本風にされる。

 

 日本風の社会とは、組織の倫理が法律よりも大切な社会。

 

 先公にダチは売れねえぜ!!

 

 という考え方が純粋であり、組織の不祥事の隠ぺいは、こっそり英雄視されている。

 

 私たちの正しさは、宇宙的にとか、法律的にとか、宗教的教義的にとかよりも、身近な会社の上司にいじめられないかによって決められている。

 

 私たちは人間関係の中に正しさを見出そうとし、しかも、自分の視界に入る人間関係の中で正しさを見つけてしまう。

 

 価値判断の定規の目盛りとしては不完全だと思われる人間関係ないの評価を、絶対的な価値観だと思い込んでい状態が、今の私たちである。

 

  現在の世界は、「虚構の中に真実を求める社会」が根底にあり、それが体制を

作り出した「虚構の支配機構」である。

 

 この体制が弱点を晒すのが「外来思想、外交、軍事、科学的思考」といった、江戸時代に鎖国をする事で締め出したものです。

 

 あの時はあんなふうに言うしかなかったけれど、空気を読んで自分が思ってもいないこと言ったんだよね〜

 

 という原因になるのが「情況」である。

 

 情況は絶対者=情況倫理を作り出す起点によって生まれる。

 

 情況は対外対内という状況変化もちろん、あらゆ事実の状況に対応するのだからその真実が事実になるように情況を設定るすればいい。

 

 私たちの「規定」はゴムの定規のように、真実を作り出すために伸び縮みをする。

 

 それが組織の空気に合わせるということだ。

 

 私たちには常に二つの論理がある、正義がある。

 

 社会全体に対する論理と、自分が所属する組織の論理だ。

 

 私は、組織への「忠誠心」を起点として、思考の出発点とする。

 

 外国人には一神教といういちおう絶対的な起点がある。

 

 神様が絶対の文化圏だ。

 

 日本にはそれがない。

 

 それも良いけど、あれも良い。みんなそれぞれいいところあるじゃん。

 

 自分の主観で善悪の尺度設定する。

 

 時代の空気に流されることが日本人が長年守ってきた思考的規範である。

 

 それはこれから国際社会で戦う上では不利かもしれないが、それでもいいだろう。

 

 目の前の人に優しくするためには絶対的な規範は邪魔だから。

 

 新しく何かを生み出すのは、あらゆる拘束を断ち切って「自由」と「自由な思考」をしているときだけだ。

 

 空気の読み合いでは何も生み出さないのだから。