空気を読みなさい
KY
なんて言われたことも1度や2度はあるんではないでしょうか。
「空気」ってなんだよ!馬鹿らしいこと言ってんじゃねーよ!
と思ったことは数知れずありました。
その「空気」について教えてくれるのが本書です。
空気論として、私にはすごく納得できるところがありました。
「空気」とは、
道徳、法律の上位概念、責任者なし、なんとなく始まった雰囲気
という理解をしていたんです。
この本では、道徳を
日本の道徳は、現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じて
おり、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、口にしたことが不道徳行為、
とみなされる。従ってそれを絶対に口に_してはいけない。これが日本の道徳であ
る。
と書いてます。
絶対へん、全くいけてないと思っていても口に出したらダメじゃないですか。
会社の会議でも、「あの時はそんなことが言い出せる空気じゃなかった」って言われたら、ほとんどの日本人は納得すると思うんですよね。
決定は「空気」がするもので、責任者がするものではない。
これもまた日本の常識です。
その決定にはデータは全くなくて、その決定の正当性の根拠は「空気」です。
失敗しても責任は「空気」だから責任を取らなくていいところは大変便利な仕組みです。
空気のことをムードと書き換えてもいいでしょう。空気が竜巻状態になったのがブームです。
タピオカとかコロナ騒ぎだってブームですよね。
タピオカが流行った理由は空気ですし、コロナ騒ぎも空気?じゃないかなと。
私たちは、何かを判断するときは、論理的判断の基準と空気的判断の基準の2つを常に同時に使っています。
私たちが話し合うのは論理的判断の方で、空気的判断の方は口にすることさえ許されない。だから誰にも見えずらい基準になります。
私がどちらの基準を重要視しているかと問われれば空気的判断で間違いない。
空気を作り出す仕組みとして、対象に対する臨在感的な把握に始まる感情移入。
感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にまでせんのしなくてはならない。
例え話ですが、親切なおじいちゃんが、冬に自分の飼っているヒヨコに、寒くてかわいそうだと思ったお湯を飲ませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。
という話があります。
他人と自分と第三者の区別がつかない状態って怖いですよね。
私たちが「常識」とか「当たり前」って言っていることってこの区別をなあなあでつけていることあるんじゃないでしょうか。
このなあなあさが空気かなと。
感情の絶対化、「他人と自分と第三者の区別がつかない状態を絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする真理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在的把握いわば物神化とその支配の基礎になっている」というなんともわかりずらい表現。
空気に支配される状態になるには、
1 2方向、2極点への臨在感的把握を絶対化し、その絶対化によって逆にその2極点に支配されること。
2 対立概念で対象を把握することを排除すること
例えば、人間の中には善悪の両面がある、という考え方をせずに、A
さんは善い人間でBさんは悪い人間だという考え方をすること。
空気という絶対化に支配されると、それを対象とした問題を解決できなくなります。
対象を絶対化する人間が純粋な立派な人間である、問題を相対化する人間は不純な
人間という見方をする傾向があるますわ。
「私の夢は○○です!!キラ」
っていう人は純粋に見えるし、表面上は褒めやすい。
その人間に茶々入れるような人間は下手すればいじめられますよ。
こういうことになるのはどういう文化的下地があるのかという、この本の考察が、
外国はユダヤ教の文化世界で、一神教の世界観である。
「絶対」といえる対象は神様だけだから、他の全ては徹底的に相対化され、全てを対立概念で把握しないことは悪いことなのです。
全てを相対化して、最終的には契約(ユダヤ教に契約というむずい考えがある)
というもの。
だから空気なんて曖昧なものは許さないし、許されないんです。
いっぽい、日本はアニミズム、八十万神の世界観です。
その世界観だと相対化は起こらなくて、絶対化の対象がいっぱいあるんです。
近所にある神社、ジブリアニメ、葬式だって全部を絶対化して拝みます。
かわいい女の子にだって、かわいいは正義とかのたまっております。
日本には絶対化する対象が次から次に現れては消えていく、それが当たり前な文化があります。
その時代、空気の絶対の対象に誰も疑いを持たず、その絶対を邪魔するものは社会悪であるという村社会が日本なのです。