こんにちはyanagi(Big Spoon)です。 (・∀・)
前回の記事では、厳密かつ論理的にユングの説を検証すると、『影』と『仮面』を元型とみなした場合、実はユングの理論における理論的整合性がとりずらい、と言ってもよい面があることを書きました。
ちなみに、前回の記事もそうですが大雑把な説明であることはご理解いただければ、と思いま~す。あえて、話を単純にしているところもありますので。
ヽ(;´ω`)ノ
ま~「アカデミックな見解における相違はあっても、あんたの考えはどうなのよ!」って声もあると思いますので、私の考えもお伝えします。
それは『影』と『仮面』も・・・
「元型として扱っちゃえ~」 です。
(≧▽≦)
そうする理由は2つ。
(『相棒』の杉下右京役である水谷豊 再掲)
1つは、『影』と『仮面』を「元型」として扱ったほうが、夢の理解には便利だと思えることです。
第2は、それらが個人的無意識の領野に深く関わっているから「元型ではない」というのであれば、そられを「準」元型としてとらえれば問題ないから、です。
こういった理論的な問題は、時代によってユングの理論が変遷を遂げてきたから、という面もあります。
(^o^;)
でも、それは裏を返せば、そうやってユングの理論は進歩をとげたのだ、ということもできます。
大体、理論上の変遷を遂げないような人なんて、あんまりいないのであります。(逆ギレ?)
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ところで、私がこんなある種アカデミックな話まで何故したかということにも、理由があります。
それは、個人的無意識と集合的無意識とを意識的に区別しておくと、夢がよりわかりやすくなる、という側面があるからです。
( ̄□ ̄;)!!
ある夢をみた場合、それが元型的なものに影響された夢なのか(つまり、民族や個人を超えた普遍的なものに影響を受けた夢なのか)、それとも個人の生活で現実に生じている事態によって影響された夢なのか、ということがよりわかりやすくなると考えています。
ですから、この記事の内容自体は忘れちゃってもケッコウですが、集合的無意識と個人的無意識の違いに目を向けるだけでも、夢って分りやすくなる、ということだけご記憶いただければ、と思います。
m(..)m
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