観てから読むか

読んでから観るか



1978年封切られた映画「聖職の碑」をその当時に

映画館で観た。


今では想像だにできないほどにおそろしく若い頃、なけなしのお金をはたいて買ったのが

新田次郎の同名小説

聖職の碑
1978年8月 第20刷 980円
今から46年前のもの(カビ臭い)←よくも残っているよな

その当時は
読んでから観たのである

そして先日
その映画がテレビ画面を通して観られるというので
昔を懐かしみつつ再び観たのである!

三浦友和(担任教師)と鶴田浩二(尋常高等小学校校長)
向こうに見えるはおそらく木曽山脈(中央アルプス)

そしてその本を引っ張り出して再び読んだのである!

つまり今度は
観てから読んだのである!


子ども時代の三大少年週刊誌、マガジン、サンデー、キングのいずれかだったか、あるいは記憶違いか、「富士山頂」という硬派のマンガが掲載されていたのを記憶している。
少年マンガと言えば、ギャグマンガか侍やスポーツ選手が主人公の勧善懲悪のヒーローものが王道であった中で、富士山頂は子どもながらに異質なマンガだったように憶えている。
「富士山頂」(‘67年)の原作者が新田次郎であった。
その当時の人気マンガ「エイトマン」の作画担当が桑田次郎(マンガ月光仮面やまぼろし探偵なども)で
新田次郎と名前がよく似ているので特に印象に残ったと思う。

その何年か後に名前を憶えていた新田次郎の小説に手を出したのが単純な動機だったように思う。

さらにその何年か後に知ったのは新田次郎は山岳小説の第一人者で山岳小説のスペシャリストだということだ。

さらにその何年か後に知ったのは新田次郎は元富士山測候所に勤務していた気象学者という経歴だったということだ。

聖職の碑は、大正2年に実際にあった木曽駒ヶ岳山頂の小学生の山岳事故(鍛錬を目的とした登山学習)という実話をもとに書かれている。

表紙裏にある山の地図には事故死した生徒名が実名で生々しく書かれている。
小説の後書きにはその山岳事故について何ページにもわたって詳細に記されている。

伊那の教育は歴史的に座学よりも実践教育に重きを置いているということを私も知っている。

山々に囲まれた伊那の里にすむものは、山の恩恵を受けつつも、厳しい山に立ち向かい、山の自然とともに歩んでいくことが求められる。
そうした中で、強く生きるための鍛錬教育のひとつとして登山体験活動が採り上げられるのは自然な流れなのかもしれない。
しかし、折しも大正デモクラシー、学校教育も古い体質からの脱却が論じられ始めた。

ここ中箕輪尋常高等小学校の中にも、旧来の大人の押しつけの教育から、個を尊重し自主性を重んじる教育を理想とする考えをもつ若手の教師たちがいた(北大路欣也、三浦友和、田中健、中井貴恵ら……)。

映画でも小説でも登場する「白樺」の文芸雑誌は、学校教育もその旗印としている理想主義、人道主義に基づいてされるべきだという意味を含ませている。
鶴田浩二扮する校長は彼らのことを、理想主義にはしる白樺派かぶれの新米教師と訝るが、そのしっかりとした考えや態度に、自分も新しい考え方に舵を切っていく必要があるのではと自問自答する……

厳しい山と共存するには人々と助け合って生きるということが子どものうちから育まれる。
険しい山の登山においても仲間と助け合うという心情が自然に身についていくと思われる。
山々に囲まれて生きる信濃の人たちが人道主義を自然に身につけるのは当たり前に思えてきた。


城址に駆け上がる冒頭のシーンで、上伊那地方の歴史、つまりこの地が武田信玄に侵略されたという話が校長から子どもたちに披瀝される。
ところが、付け加えはないかと校長より問われた若手教師役の三浦友和が語る箕輪地方の歴史は、憎き侵略者武田信玄を別の視点から見る歴史観であった……

教育予算の生殺与奪権を握る視学官と校長が見守る北大路欣也扮する教師の授業
自分の手をスケッチする図画の授業で教師はある子どもの作品をかかげる。大きく描かれた不格好な絵に友だちから笑いが漏れるが、教師は
「この絵には小さくて体の弱い〇〇の気持ちが表れている。〇〇は強くありたいという願いがあるのだ」と話し、子どもから「絵はニセモノ書いてもいいのか」と問われ、「絵というのは自分の願いや気持ちを表すものだ」と子どもたちを諭す……に対して国が定めた教育方針にしたがうべき(図画なら模範通りに正確に模写する)だとする視学官と対立する……

山の仕事にたずさわってきた新田次郎の教育観や人間性、つまり新田ヒューマニズムがこの聖職の碑にいかんなく発揮されている。

超ベストセラーになった「国家の品格」を著した数学者の藤原正彦氏が、新田次郎の次男であるのを知ったのはこの本を買ってからだ。


藤原氏はこの本で、日本人として情緒(惻隠の情や武士道精神)を誇りとし大事にすべきだと論じている。
まさに新田ヒューマニズムが子に受け継がれていることを痛感する。

聖職と言うと、神官や牧師、僧侶、そしてその昔は学校教師も該当していたと思う。

旧制の学校教育は「教育勅語」が教育方針の大原則だった。
教育勅語とは明治天皇が下したお言葉で、それが国の教育方針となった。
つまり神さま(明治神宮の祭神)となった明治天皇のお言葉をもって教育にあたる教師は、聖職者なのであった。
昔、伯母の訃報を聞いた直後に伯母の通信簿を偶然にも発見した(奇遇というか神がかりというか不思議な縁を感じた)。
その伯母の通信簿の表紙裏にはまるまる1ページをさいて教育勅語が大きく書かれてた。
その伯母は大正中期の生まれなので、聖職の碑の時代のちょっとあとあたりだろう。


若い頃にふれた文化財を年を食った後にもう一度ふれるのは
自分の振り返りとして有意義ではあるまいか

青春の一里塚で出会ったもの
長い道のりを経て
それはどんな「景色」に映るのか

人生は
Long and winding road

以上