ラジオと戦争


表題から

戦時下、国営のラジオ放送局が大本営発表をそのまま放送し、戦意を高揚させつつ国民を欺いたもうひとつの戦犯

という認識をもつかもしれない


23年11月第5刷 本文573ページ

実は日本軍とラジオ局のタッグが組まれたのは太平洋戦争前の日中戦争からだという。


著者は82年にNHKに入局したのち、主に番組ディレクターとしてETV(以前の教育テレビ)特集を手がけてきた。

その番組名には原爆、戦場、戦犯などが見られ、戦争をテーマにした番組制作を、職業人としてライフワークにしてきたことがうかがえる。

特に同番組「シリーズ戦争とラジオ……」や同「敗戦とラジオ……」は、この長編ノンフィクションをまとめ上げるきっかけとなったと容易に察せられる。


膨大な資料をひもとき、先輩放送人をたずね歩いてまとめた同著は、帯にあるようにまさに渾身の1冊に違いない。

ページ数もさることながら、びっしり並べられた文字を追うだけでも、著者の血のにじむような仕事ぶりが伝わってくる。

おそらく、仕事という義務感よりも、倫理面での使命感という動機のほうが強くはたらいたのだと私は思った。



日中戦争の最中、記録録音(記録映画ではない)放送「病院船」という番組があった。

病院船は、中国の戦場で傷ついた兵士を(治療のために)内地に送還する役割を担っていた。

その病院船に録音チームが乗船して番組化したものである。

傷病兵にかける部隊長の励ましのことば

内地での治療は「再び戦場に戻るための治療」であり、それにこたえる傷病兵のことばは、内地療養が終われば再び戦場に戻り戦わねばならない「再起奉公」の心意気なのである。

これがこの「病院船」の録音放送の主題なのである。

録音放送番組は、その主題に沿ったかたちに編集されていく。

部隊長や病院船スタッフ、看護師、傷病兵、内地で迎える家族や関係者、鬼畜でない限り、それぞれのことばの底には憤りの涙が潜んでいたに違いないと思いたい。


日本のラジオ放送は、1928年に無線電信法のもとに始まり、同法第一条には「政府之ヲ管掌ス」とあるように政府の管理下におかれ、当然ながら「政府の御用機関」の役目を果たしてきた。

時代は急速に全体主義、軍国主義に染まりだし 始めたころ、時の権力者によってラジオ放送が軍国化に利用されるのは想像するに難くない。

それでも、1932年にあった「全国ラヂオ調査」では、「官僚化に反対」する旨の意見が自由記述欄に一定数みられたことは注目に値する。大正デモクラシーの残照残影が人々の意識の中にあった表れかもしれない。

そういった声をかき消すように、より一層、隠蔽工作、偏向放送、プロパガンダなどの公正さを欠く放送が強まっていったのかもしれない。


時節は一気に飛んで、いよいよ負け戦があちらこちらで明明白白になり出した44年9月には、中国・ビルマ(当時)国境付近で日本軍守備隊が全滅をした。いわゆる玉砕戦である。

がしかし、「世界の戦局」という放送ではなんと

「……(その玉砕が)将来にもたらす影響が、皇軍完勝の公算を次第に確実にしてきたという点に画期的意義がある」

としたのである。

つまり、日本軍は全滅覚悟で戦い抜いているから物量(や兵力)に劣っていても敵に大きな損害を与えることができ、相手に対して大きな動揺を与えた……

なんという屁理屈だろうか


太平洋戦争の狂気のひとつが玉砕戦法なら、もうひとつの大きな狂気は神風特別攻撃隊であろうと思う。

著者はそのことを昭和の名優森繁久弥の体験談(その著書「こじき袋」)より引いている。

森繁久弥は、関東軍司令部参謀からの依頼を受け、沖縄に向かう特攻隊員の遺言を録音することになった。

〈そのエピソードの深い哀しみをここに表現することは不可能なので省略します〉

ラジオが伝える特攻隊員の声は、長い戦いに疲れた銃後国民を奮い立たせた

とあるが……どうなんだろう?


一億総玉砕

挙国一致


負け戦を

ラジオ放送を通してさらに上書きしていくのだ