この本は、ジムで知り合った、大学を退官された先生が書かれたもので、ご自宅に遊びに行った折にいただいた。
美術系の先生で、たしか都市工学とか都市デザインなどという類いが専門だったらしい(橋のデザインとか)※娘さんは戦後最初に東大総長になられた名家に嫁がれたという
小難しい話をしたりしていたが、意気投合して他の仲間との飲み会や、うちで催したバーベキューなどにも参加してくれた。俳句にも造詣が深く、何かに投句して特選の譽れに与ったこともあった。ジムでは専ら水泳に取り組んでいて、大病から快復したりして元気なご様子だったが、長年の喫煙がたたったのか、数年前に突然他界した。

この本の帯にある“ナイフ”とは、肥後守という小刀で、先生は教授時代にそれを学生に与えて鉛筆を削らせたが、危なっかしい手つきで満足に小刀を扱えなかったことを憂えて…というような論旨である。
またまた昭和の化石化したような話になるが、私たちの頃は、男の子であれば普通に携帯用の小刀を持ち歩いていた。護身用にではない。ある意味、イギリス紳士が雨もないのに傘を持ち歩くと同じような風情で、かっこつけるための必需品だった。パチンコをつくる木の枝を切ったり、今ごろなら柿の実をもいでその小刀で皮をむいだりした。うちには砥石があり、よく親に隠れて刃を研いだりして、後生大事に保持していた。
前置きが長くなったが、つまり、手先を使う生活スタイルが剥奪され、その結果、手先の器用さが失われつつあるという話で、そのための「手の復権」という書になったわけである。


テレビからの受け売り情報だが、先日、スマートフォンならぬ、スマートコンタクト(レンズ)なるものを紹介していて、技術革新とその進歩に感心するとともに、手の復権と同じような憂えを覚えたのだった。
そのコンタクトレンズを装着すると、たとえばまちの看板を見つめるとその商品広告の情報が入ってきたり、それと連動したお店のグルメ情報にたどり着いたり、ゴルフ場だったらプレーするコースの特徴やら攻め方などを指南してくれたりと、パソコンやタブレット端末機からの情報を“瞳の中”に再現するような感じかと理解した。スマフォからの情報なら、使用者が能動的に得るかたちになろうかと思うが、スマコンは好むと好まざるとにかかわらず、さまざまな情報がどんどん入ってくる感じがして、そんなものを身につけたら常に脳ミソがスパークし続けて、それこそ神経がスパークしてしまわないかと大袈裟に考えた。
それよりも心配なことは、たとえばゴルフプレー中に、コースの攻め方、つまり自分の技量に合わせたクラブの選択や、打ち出す方角、コースの起伏、ピンまでの距離などをいちいち教えてくれたら、自分で考え戦略を立てるなどの喜び、あるいはうまくいったときの達成感、失敗したときの喪失感などを味わう人間としての営みまで奪ってしまわないかと危惧する。同じくスポーツで考えれば、バスケットボールのプレー中にスマコンからの情報、相手のくせやシュートタイミング、ドリブルかパスかなどを指示してきたり…、それこそそれは自分の能力を基盤としたプレーではなくなるのではないか。ある意味ドーピングである。

テレビからの、このスマートコンタクトがもたらす明るい未来を喧伝した論調から、以前読んだ本「発明は改造する、人類を」を思い出してしまった。何も考えず、すべてとは言わないまでも、機械が代わりにやってくれるなら人間の技量はどんどん退化してしまうだろう。それに、たとえばスポーツの試合の優劣は、スマコンの性能の良し悪しで決まる、なんてことがあってはならないし、生身の人間の生活の営みからくる喜びを奪ってしまうことにもつながる。その喜びとは生きる喜びである。
直ちに開発を中止されたし。
まあ自分ならそんなものわざわざ買って身につけることはないと思うが。
ただし、たとえば身体的に不自由な人がそのようなスグレモノを身につければ、逆に生きる喜びを復権させられるかもしれない。