リバタリアン


ホラー映画を彷彿とさせる題名とツァィガルニク効果(何々…どうなった?)及び勧善懲悪的結末(ざまを見ろ!)を誘発するようなコピーならびに著名人の短評との相乗効果によって衝動的に買い物かごに入れてしまった本


2022年3月4日第一刷 本文362ページ
知的好奇心を満たしたり学びにつながる期待はもてずともノンフィクションものとしてはある意味小説より奇なりで、異次元世界を描いた映画の鑑賞と同等の面白さが味わえたのかもしれない。それはピュリッツァー賞の最終候補にもなったことのある社会派女性ジャーナリストである著者の体を張った(非協力的なリバタリアンからの口撃や脅しとそのコミュニティに出没するアメリカクロクマとからの命の危険)取材活動と彼女(及び翻訳者)のジョークと皮肉とを交えた一気呵成的流れる文体によるものと思われる。


リバタリアンとはグーグル先生によると「個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する自由主義上の政治思想・政治哲学をもち、新自由主義が経済的な自由を重視するのに対しリバタリアンは個人的な自由を重んじ、他者の自由や正当に所有された私的財産を侵害しない限り各人が望む全ての行動は基本的に自由であると主張…」とある。その程度の差によって自由至上主義者、完全自由主義者、自由意志論者などと日本語では使い分けられるのかもしれないが、アメリカ人の文化的・歴史的背景(自由の国アメリカ、個人主義のアメリカ、西部開拓時代のアメリカなど)や政治的・宗教的背景(拮抗した二大政党、トランプ政権の誕生、宗教思想の生活化)や人種・民族的背景(多様性や差別意識など)を考慮したとしても、アメリカ人のリバタリアンを理解するのは日本人として困難なのではないかと思った。アメリカの前政権をめぐる大きな混乱を目の当たりにすると、一部のリバタリアンたちは私たち日本人が考える自由主義の程度をはるかに超えた筋金入りなのではないかと思われた(税金拒否権や銃保有の権利などの主張はわかるが性的嗜好のようなむちゃくちゃな権利を公的に主張しているものもある)。そして自由至上主義と聞いてまず思い浮かべたのが“自由を突き詰めていくと自由ではなくなる”とか“自由と安全は相反する”というかつて学んだことで、自由主義思想の教義を忠実に実践していくとやがては生活が破綻するのは必定と私は結論づけてしまったのだが…リバタリアンたちがユートピアを夢みて集まった町が、アメリカ北東部の虫眼鏡で見分けるほどの小さなニューハンプシャー州にあるグラフトンというところで、北はカナダに近い。かつてイングランド人が上陸した時代から見れば、自由を求める風土が伝統的に受け継がれた土地であると言えるのかもしれない。著者はつい最近(2020年)まで現地に取材して本書をまとめている。本書で語られているのは現地に暮らす個性的なリバタリアンの男女数人の動向(たびたび語られていくことでその人たちに愛着がわいてきた)と、そこに出没してリバタリアンたちと関わり合うことになるクロクマ(ヒグマより小さくツキノワグマより大きい体格で気性的にもおそらく二体の中間か)をめぐる政治的・法的駆け引きと安全確保の苦労話である。グラフトンのリバタリアンたちの様子から自由主義者の定義のほかにさまざまな形容が思い浮かんだ…ホームレス、世捨て人、クレーマー、理論武装者、ナチュラリスト、ひきこもり、自由人、その日暮らし、隠遁者、頑固者、変わり者、偏屈者、税金滞納者、反体制派、無(反)政府主義者、トラブルメーカー、夢想家、反家族主義者…あと何だろう?



では

自由至上主義者のユートピアは実現できたのか



それは本書を読んで確かめていただきたい物申す


言えるのはこれは結果でなく経過だということ


畑の草刈り・除草したとしてもずっとそのままであるはずはない