ミュージアムパーク茨城県自然博物館に行った。

今までにも行こうとする動機があったのだが頓挫し続けてきて、今日初めてその門をくぐった。

自然を守る行為とそこに人工物を造る行為とは相反するものだが、その両立差をできるだけ小さくしようというコンセプトのもとに建設された。
菅生沼がそばにあり、森林の中にできるだけ自然に融け込むカタチでひっそりと佇んでいる。
自然との共存という主張が認められ、公的建物100選に選ばれている。

考古学、博物学、生物学から宇宙物理学に至るまで、幅広いテーマでの貴重な展示物の数々が並んでいる。
※撮影可
子どもが喜ぶ恐竜
動く

隕石衝突の莫大な熱でできたテクタイト(本物)

始祖鳥の化石(複製)

マンモスの頭部(本物)
など…



さて

この博物館では今、企画展
「宮沢賢治と自然の世界」
が催されている。

宮沢賢治が残した詩、短歌、童話などの多くの文芸作品を見れば、自然博物館の中に彼をテーマにした展示を行うことは大いに納得できるのではないだろうか。

この企画展のサブテーマ
-石・星・生命をめぐる旅-
を知れば、賢治ファンなら彼の作品からテーマに該当する箇所をたくさん思い浮かべることができると思う。

“イーハトーブ”にあった様々な動物、植物、そして鉱物や鉱石などが何種類も登場してくる。





宮沢賢治概略

1896年(明治29年) 現・花巻市に生まれる

1915年(大正4年) 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)首席入学

1921年(大正10年) 上京後 県立花巻農学校教諭となる

1922年(大正11年) 妹トシ永眠(24歳)
         ※詩「永訣の朝」

1924年(大正13年) 「注文の多い料理店」自費出版 ※東京書籍5年生の国語教科書に採用されている。
高校の教科書に夏目漱石や森鴎外が欠かすことがないように、小学生が宮沢賢治をはじめ、新美南吉、椋鳩十の作品にふれるのは意義があるように思う。

1926年(大正15年) 県立花巻農学校依願退職
「羅須地人協会」設立


1933年(昭和8年) 永眠(37歳)


自費出版した「春と修羅」「注文の多い料理店」以外の多くの作品は、弟の宮沢清六によって戦火からも守られ、多くの人々の尽力によって世に出ることとなった。※弟さんは97歳と長生きした
そして、多くの人々に親しまれ現在に至っている。

「セロ弾きのゴーシュ」の直筆原稿の複製
セロ弾きのゴーシュは私が小学生のとき読書感想文の宿題のため親にせがんで買ってもらった。その当時布張りの装丁だった。
楽器としてのチェロは賢治自身も習っていた。東京にて数日間稽古したがものにはならなかったようだ。それが下手なセロ弾きのゴーシュとなったのかもしれない。


手帳に残した「雨ニモマケズ」の複製

最近になって同詩を読み返してみて感銘を受けた。そしてとても新鮮な気持ちになった。
詩の中に表明された生き方が賢治の理想像だとすると、生きる時代や土地が違っていても賢治のような生き方が自分に多少なりともできやしないか、憧れに似た感情をもった。
自然の成すままに生きること、物欲から遠ざかった生活、奉仕の心をもつのは容易ではないと思うが…

“…そういうものに私はなりたい”という賢治のように私もなりたい!
賢治が農学校の教師を辞めたのが謎なのだが(間もなく病に伏しているところから病弱であったという理由かもしれない…)、後の旺盛な文芸作品づくりや、ライフワークの地学研究、専門分野の農業指導、趣味の歌や音楽活動など類い希で豊かな才能を存分に発揮することができた点においては悔いなき生涯を全うしたと解釈したい。ある意味自由な生き方の拠り所としたのが羅須地人協会なのだろう。
37年間というのは賢治にとっても中身の濃い人生だったに違いない。


小学生のとき「よだかの星」を読んだ。
とても悲しかった。読んでいて息が苦しくなったようなことを憶えている。
誰からものけ者にされ(太陽や星からも)、ひとりぼっちのよだかがかわいそうだった。
天に召され光になっていく場面は、静かで厳かな終末的宗教儀式のようだったし、不思議な感じがした。

生きるためにたくさんの虫たちの命を奪ったことに対する悔恨の念や生まれ変わったとしても夜鷹の醜い姿は変わらないとする転生思考は仏教思想のようでもあり、天に向かって逝くのは欧米の宗教観に基づいている気もした。

宮沢賢治の作品を一つ挙げよと言われれば、私は「よだかの星」を選ぶ。
夜鷹と鷹の名前がついているが他の鷹に比べてとても小さく黒と茶色のまだら模様の地味な羽色の鳥である(作品中に味噌をつけたように…とある)。準絶滅危惧種のレッドリストに挙げられている。
他の作中に登場するハチクマやアカショウビン、カケスなども今はレッドリストになっている。
夜空に燃え続ける「よだかの星」が何なのか、16世紀にカシオペア座に出現した超新星(恒星の最期で膨れ上がって爆発)ティコなのではという説がある。



ツキノワグマの親子とマタギの物語「なめとこ山の熊」のくだりは、先日当ブログに書いた「生きもの民俗誌」の中でたびたび引用されている。
なめとこ山は賢治の造語とされていたが、近年、明治期の地元誌にその記載が見つかっている。


宮沢賢治が現代に、しかも大都会に生まれていたら「宮沢賢治」は出現できなかったのかもしれない。


全編まとまりに欠ける文章、ご容赦願いたい。



ちなみに、宮沢賢治はうちの祖父とほぼ同年代である。



おしまい…