それからの時間は、驚くほど静かで、穏やかだった。
「付き合いましょう」
そんな言葉は、最後まで使わなかった。
代わりに、仕事帰りに一緒に歩いて、
たまにご飯を食べて、体調を気遣うメッセージを送り合う。
それだけ。
でも、それで十分だった。
ゆかりさんは、無理をしなかった。
無理に笑わない。
無理に前向きにならない。
亡くなったご主人の話も、隠さない。
「今でも、大切です」
そう言うときの彼女の声は、迷いがなかった。
俺は、それを否定しなかった。
消さなくていい。
忘れなくていい。
心に置いたまま、生きていい。
それが、俺にできる精一杯の距離感だった。
交際から、二年。
ある日の夜。
いつものように、静かな食卓。
ゆかりさんが、少し緊張した顔で言った。
「……直人くん」
「話があるんです」
嫌な予感は、しなかった。
ただ、背筋が伸びた。
「赤ちゃんが、できました」
一瞬、言葉が見つからなかった。
嬉しい。
怖い。
全部、同時に来た。
「結婚……」
「してくれますか?」
彼女は、そう言って、不安そうに笑った。
俺は、深く息を吸って、ゆっくり答えた。
「こちらこそ」
「よろしくお願いします」
その瞬間、彼女は、泣きながら笑った。
結婚式は、派手じゃないものにした。
彼女が、言った。
「静かで、あたたかいのがいい」
それは、彼女自身みたいだった。

そして、子育て。
夜泣き。
ミルク。
オムツ。
思っていた以上に、大変だった。
「こんなに泣くとは思わなかった……」
そう言いながら、二人で笑った。
眠れない夜も、不安な日もある。
それでも。
あの夜、病室で手を握ったときのことを、俺は忘れない。
失いそうになって、気づいた想い。
失わないように、育てていく時間。
ある日、ふと、ゆかりさんが言った。
「ねえ」
「私、前よりちゃんと笑ってる?」
俺は、即答した。
「はい」
「かなり」
「そう」
彼女は、子どもを抱きながら、窓の外を見た。
「ありがとう」
「踏み出させてくれて」
俺は、首を振った。
「踏み出したのは、ゆかりさんです」
それに、俺は付いていっただけ。

家族になる、ということは、何かを忘れることじゃない。
大切なものを抱えたまま、新しい時間を重ねていくことだ。
あの日、「恋愛対象じゃない」と言われた夜から、ここまで来た。
遠回りで、少し痛くて、でも――ちゃんと、たどり着いた。
俺は、この静かな幸せを、一生、守っていこうと思う。
それが、あの夜、サンドバッグでいいと言った男の、
一番大事な役目だから。
――完。
あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、
「人はもう一度、恋をしてもいいのだろうか」
そんな小さな問いから生まれました。
大切な人を失ったあと、心は簡単には前へ進めません。
思い出は消えることはなく、
むしろ時間とともに静かに深く残っていくものだと思います。
佐藤ゆかりも、きっとそうだったのでしょう。
だからこそ彼女は「恋愛はしない」と決めていた。
けれど人の心は不思議なもので、
誰かのまっすぐな想いに触れたとき、
少しずつ、ほんの少しずつ凍っていた時間が動き出すことがあります。
塚田直人は、特別なことをしたわけではありません。
ただ、そばにいただけ。
逃げずに、まっすぐに、
相手の心を受け止めようとしただけでした。
それでも、その「まっすぐさ」が人の心を救うことがあるのだと思います。
恋は、若い人だけのものではありません。
そして 恋は、見た目や条件ではなく 心でするもの。
この物語を読み終えたあと、もし少しでも
「人を想う気持ちはいいものだな」
と思っていただけたなら、作者としてこんなに嬉しいことはありません。
これからも、心が少し温かくなる物語を書いていきたいと思っています。
またどこかの物語でお会いできたら嬉しいです。
本当にありがとうございました。
学舟