雨は、本降りになりつつあった。
レインウェアのフードに当たる雨粒が、
やけに大きな音を立てる。
――落ち着け。
――まず、状況確認だ。
自分に言い聞かせながら、
僕は崖の縁に慎重に近づいた。
足元はぬかるんでいる。
滑ったら、次は自分が助けを呼ぶ側だ。
「大丈夫ですか!
動けますか!」
声を張ると、少し間を置いて返事が来た。
「……動けません……
足を……ひねったみたいで……」
確かに、女性の声。
若い。
でも、呼吸が浅く、切れ切れだ。
見下ろしても、人影は見えない。
霧と木々が視界を遮っている。
(……まずいな)
この辺りは、登山道から少し外れると
一気に切り立った地形になる。
俺しか、いない
スマホを確認する。
――圏外。
まあ、想定内だ。
この山で電波を期待する方が甘い。
周囲を見回す。
他の登山者の気配は、ない。
「今、助けに行きます!
無理に動かないでください!」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
大学時代、
登山部で何度も叩き込まれた。
「パニックになるな。
判断を誤るのは、だいたい人間の方だ」
深呼吸して、ザックを下ろす。
ロープ、カラビナ、ハーネス。
幸い、装備は揃っている。
(来週、使う予定なかったけどな……)
そんな場違いな考えが浮かぶのは、
逆に冷静な証拠だ。
ロープを下ろす
慎重に支点を取り、
ロープを固定する。
雨で岩が滑りやすい。
二次遭難は、絶対に避ける。
「ロープ、見えますか!」
「……はい……見えます……」
声が、少し安心したように聞こえた。
(よし、生きてる)
それだけで、胸が少し軽くなる。
ゆっくりと、ロープを使って降りていく。
視界が開けるにつれ、
ようやく彼女の姿が見えた。
そこにいたのは――
思わず、言葉を失った。
彼女は、登山者の格好をしていなかった。
薄手のジャケット。
軽そうなスニーカー。
街着に近い。
完全に、山をなめている。
しかも、全身ずぶ濡れ。
肩をすくめ、ガタガタと震えている。
「……すみません……
本当に、すみません……」
涙混じりの声。
「いいです、今は。
ケガしたところ、どこですか」
冷静を装いながら、近づく。
足首。
見ただけで分かる。
腫れている。
これは、立てない。
さらに、顔色が悪い。
唇が紫がかっている。
(……低体温、来てるな)
名前も知らない彼女
「寒いですよね。
今、上に連れて行きます」
「……本当に……
ありがとうございます……」
目が合った。
その瞬間、
“遭難者”じゃなく
“一人の女性”だと、はっきり認識してしまった。
綺麗な人だった。
でも、今はそれどころじゃない。
「失礼します」
そう言って、背を向ける。
「え……?」
「おんぶします。
他に方法がない」
一瞬、迷った気配。
でも、彼女は小さく頷いた。
「……お願いします……」
背中に感じる体重は、
思ったより軽かった。
それが、逆に怖い。
山は、容赦しない
ロープを使い、
一歩一歩、慎重に登る。
腕に、脚に、
いつも以上に力が入る。
(落ちるなよ)
(落ちるなよ、俺)
何度も、心の中で繰り返す。
雨音と、自分の息遣い。
彼女の震えが、背中に伝わる。
「……寒い……」
「もう少しです。
近くに山小屋があります」
それが本当の救いかどうか、
この時点では分からなかった。
ただ、
進むしかなかった。
――こうして、
二人の運命は、
雨の山の中で、
完全に絡まり始めた。











