桜が散るころに
第2話
おはようございます、だけ
和枝は、自分でも少し不思議だった。
いつもより十五分早く家を出る理由なんて、本当はない。
介護施設の朝礼は八時半。
公園へ寄らなくても十分間に合う。
なのに最近は、自然と早く目が覚めてしまう。
今朝も、湯気の立つインスタントコーヒーを飲みながら時計を見て、
「あ、そろそろ」 と思ってしまった。
誰に急かされるわけでもないのに。
外へ出ると、春先の空気はまだ少し冷たい。
吐く息が白くなるほどではないが、マフラーを外すには早い季節だった。
公園の桜は、昨日よりほんの少し色づいていた。
まだ咲いてはいない。
でも、枝先に小さな春が増えている。
和枝は足を止め、そっと見上げた。
「今日は、少しピンクですね」
独り言のつもりだった。
「ええ」
後ろから返事がきて、和枝は肩を揺らした。
「あ……」
振り返ると、あの男性がいた。
グレーのコートに、紺色のマフラー。
相変わらず古いカメラを首から下げている。
「おはようございます」
男性は静かに頭を下げた。
「あ……おはようございます」
和枝も慌てて会釈を返す。
それだけ。
本当に、それだけだった。
なのに、なぜか少し嬉しい。
男性は桜へレンズを向ける。
カシャ。
朝の静かな公園に、小さなシャッター音が響いた。
和枝はなんとなく、その隣に立っていた。
何を話すでもない。
でも、立ち去る理由もなかった。
「写真、お好きなんですか?」
気づけば、和枝のほうから聞いていた。
男性は少し考えてから、曖昧に笑う。
「好き……なんでしょうね」
変わった答えだった。
「でしょうね、って」
「長くやってると、好きなのか習慣なのか、わからなくなるんです」
和枝は少し笑った。
「それ、仕事も同じかもしれません」
「介護のお仕事ですか?」
「わかります?」
「なんとなく」
男性はそう言って、またカメラを構えた。
和枝は、自分の手を見た。
冬の乾燥で少し荒れた指先。
毎日、誰かの身体を支える手。
母の介護をしていた頃は、仕事が終わって家へ帰っても、
また介護だった。
食事。 薬。 夜中のトイレ。
眠れない日も多かった。
あの頃は、「ひとりになりたい」と思っていたのに。
今は逆に、誰とも話さない日が増えた。
施設では利用者と話す。
同僚とも必要な会話はする。
でも、“自分のための会話”は、ほとんどない。
だからだろうか。
この、たった数分の立ち話が、妙に心に残る。
「今日は風がないですね」
男性が言った。
「ですね」
「こういう朝は、蕾が開きやすいんです」
「そうなんですか?」
「たぶん」
また曖昧だった。
和枝は思わず吹き出す。
「“たぶん”多いですね」
「断言すると外れるので」
真面目な顔で言うものだから、和枝はまた笑ってしまった。
久しぶりだった。
こんなふうに、力を抜いて笑ったのは。
その時、遠くで小学生の集団が走っていった。
ランドセルが揺れ、黄色い声が朝の空気を通り抜ける。
二人は自然にそちらを見る。
「元気ですねぇ」
「ですねぇ」
また会話が止まる。
でも、沈黙が気まずくない。
むしろ、少し心地いい。
和枝は時計を見た。
「あ、まずい」
「お仕事ですか」
「はい。遅刻はしませんけど、バタバタするので」
「それはいけない」
男性は少し笑った。
和枝はバッグを持ち直す。
「じゃあ……」
「はい」
一瞬、何か続きを言いそうになって、
結局、お互い何も言わなかった。
ただ、「おはようございました」 男性がそう言った。
少し変な日本語だった。
和枝は目を丸くして、吹き出した。
「終わってますよ、朝」
「本当だ」
二人で少し笑う。
たったそれだけのことなのに、和枝の胸の奥が、
ほんのり温かかった。
駅へ向かう途中。
和枝はふと思う。
名前も知らない。
何をしている人かも知らない。
なのに、明日の朝も、たぶんこの公園へ来るのだろう。
そしてきっと、あの人はまた、
まだ咲ききらない桜を撮っている。
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