もう随分前に水揚げ(水商売を卒業)した、元キャバ嬢の友人がいるのですが、こんな話をしました。

柳田「もし、初めて来店した客が、くまのプーさんの物真似が物凄く巧かったらどうする?」

友人「最初はめっちゃウケて腹抱えて笑うと思うけど、後半飽きると思う」

柳田「じゃあ、その客がめっちゃ空気読める人で、『あ、飽きてきたな』っていう空気を察して普通のしゃべりに切り替えて、その切り替えたときの最初の一声がクリスペプラー並みの良い声だったら、どうする?」

友人「この人、なんで物真似なんかしてたんだろー!って、けっこう真剣に引くと思う」

・・・・・。
進むも地獄、戻るも地獄ってこのことです。物真似を続けても飽きられ、物真似を止めても引かれる。どうしてこんなことになったんだろう?と振り返ると、店に入って最初に物真似を始めた瞬間に、この運命はもう既に決まっていたんですね(物真似さえしなければこんなことにはならなかった)。

今何かが起こっているのは、今に原因があるのではなく、その前に既にその引き金を引いていたわけで、人生の因果とはこんなにも深いものなのかと思います。
大相撲の元力士で、昭和の大横綱と言われた大鵬関が亡くなったそうです。
僕は大鵬関の現役のころ(1960年代)は知りませんが、当時の子どもたちの好きなものが「巨人、大鵬、卵焼き」と言われていたことは知っています。それで、なんとなく、この言葉を検索してみたら、こんな記事がヒットしました。

教えて!goo 「巨人、大鵬、卵焼き」の卵焼き

記事の中では「卵焼きは出し巻き卵なのか、目玉焼きなのか」という質問がされています。

それに対してベストアンサーに輝いた No.6さん の回答。(抜粋引用)

どんな焼き方か・・・といえば、それはもうそれぞれの家庭のスタイル。
あの頃は、お母さんが工夫を凝らしながら美味しくて栄養満点のメニューを一から作り上げてくれていた時代。今のようにスーパーで買ってきた冷凍食品で手っ取り早くおかずを作り上げることが多いとなると、なんだかあらためて反省したくなります。


この部分を読んだときに「あぁ、そうか」って思ったんです。

「食育」ということが言われて久しいです。モノをおいしく食べて、健康な、命に感謝ができる人になろうという教育です。個人的な経験からしても、食べ物にまつわる好みや習慣は幼少期の経験に大きく左右されます。幼少期の食事やそこからの学びは本当に大事。また、食べ物を食べることを通して、家族のコミュニケーションが成立することで、その後の人格形成や家族関係の形成にも大きく影響するものです。

また、食べるだけでなく作るということ。試行錯誤をしてお母さん(に限らず家族の誰か)が作ってくれた。それも自分のためにおいしいものを工夫して。それは時間のかかることで、出前や外食、スーパーの惣菜や冷凍食品などで済ませた方が手間無しだと思います。それでも、そういう時間を作ることが、またそういう背中を見せることが、何よりものコミュニケーションになったり、大事な情操教育になったりするのかもしれないと、そんなふうに思います。少し手間なことをすることで人同士のつながりが深まることもある、ということです。

オランダ人の知り合いが言っていました。食器洗い機はよくない、と。親子が並んで皿洗いをしながら、色々なことを話す時間が、家族のコミュニケーションに役立つのだ、と。皿洗いは、横並びで流しに立つので、顔を見なくて済むため、言いにくいことを言えてしまう魔法のコミュニケーション姿勢なのだそうです。

そういうことができにくいほど、忙しい時代です。便利なものを使うことでその忙しさに振り落とされずに着いていく毎日ですが、代わりになにか大事なものを失くしているのかもしれないと、ちょっとしんみり考えてしまいました。
数日前に、東京の文京区湯島にある湯島天神に行ってきました。

ここは学問の神様で有名な菅原道真公をお祀りしているそうで、
毎年この時期は受験生でにぎわっています。
僕自身も、塾の先生をしていたころは、
毎年生徒の合格祈願に来ていました。

今でも、仕事で高校生や大学生にお世話になる機会が多く、
毎年1~3月期は入学試験や国家試験の子が何人かいます。
なので、実はここ数年もお参りに行ってます。

そして毎年、ブログに下記の記事を書くのが恒例になってます。

それでは、試験勉強に忙しくてお参りに行けなくても大丈夫!
バーチャル参拝、行ってみよー!!

パソコンの画面に向かって、パンパンって手を合わせて下さい。

交差点当番
まず、鳥居をくぐって、参道を抜けて、本殿に向かいます。

参道とは神様の宮に向かうところであり、
産道は子の宮(子宮)から命がやってくる通り道。
参道と名のつく場所を歩くたびに、発音の奇妙な近似性が頭をよぎります。


交差点当番
お参りの前には手を洗って口を漱いで、身を清めます。


交差点当番
こちらが湯島天神の本殿。


交差点当番
お賽銭を準備します。

115円は、「良いご縁」でもあり、
「100点(満点)」に「15円(十分なご縁)」でもあります。


交差点当番
お賽銭を入れたら、二拝二拍一拝だそうです。
(二回お辞儀、二回柏手、一回お辞儀、です)


神様、奇跡はいりません。
どうか、受験生みんなが、体調万全で試験に臨めますように。
当日、無事に力を発揮しきれますように。


みんな、応援してます。
あと少し、身体に気を付けて!
これまで蓄えてきたものを出し切って、良い試験にしてください!
みなさま、明けましておめでとうございます。
だいぶご無沙汰しておりまして失礼しました。
今年もよろしくお願いいたします。

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先日、「対人関係で気を付けていることは何か?」という話をしたとき、
「結果で人を責めないこと」と回答させていただきました。

開業するときにひとつだけ心に決めていたことがあります。
それは「何があっても感情的に怒らないこと」でした。
今でもこれを守っているからか、大きな損をすることはありません。
「結果で人を責めない」というのは、この考え方の仲間だと考えています。

「なんでこんなことをしたんだ!」
「なんでこんなこともできないんだ!」
「なんでこんなことになってるんだ!」
と怒っている方がよくいますが、
私はそれで物事が改善した事例をみたことがありません。
感情的になって怒ることには何の効果もありません。

「なんでこんなことになってるんだ!」という
結果だけを評価する怒り方は厳禁だと思っています。
それは、仕事でも子育てでも日常的な人間関係でも、
すべて同じです。

結果を否定するだけの怒り方は、
1)怒られた側が怒られた理由を理解できない
2)何をやっても怒られるんじゃないかと萎縮する
3)失敗を恐れて何もしなくなる
となり、結果としては「冒険をしない人間」を作ります。

例えば小さな子どもを育てる場合。
小さな子どもはとにかく何でもやりたがります。
そして痛い目を見たり叱られたりしながら、
やっていいことといけないことの区別をつけていくものです。
この時に「それをやっちゃダメ!」「あれをやっちゃダメ!」と言うだけでは、
「なぜ怒られているのか分からないけれど、怒られるから何もしないでおこう」
と考える子どもになってしまいます。

判断の基準を教えてあげる方がよいと思うのです。
「これはこういう理由でよくないよ」(理由を示す)
「こういうふうにした方が、みんなが嬉しくなるよ」(代案を出す)


思春期の生徒を教えたり、大人の部下を育てたりする時も、
基本的な考え方は一緒だと思います。

私が影響を受けたある上司は
「そんなに言うなら、会社潰してみろ。
お前一人が何やったところで、会社は傾かない」
と言って好きにやらせてくれた上で、
至らなかったところや、考え方を改めた方がいいところについて、
「もっとこういうふうに考えてみろ」と指導をしてくれました。


何かをするとき、人間には必ず「つもり」「意図」があります。
本人の中のその「つもり」に従って出た結果を見て、
その結果だけを否定することは、
相手の「つもり」を否定することで、時にはそれは相手自身を
否定したのと同じような結果をもたらすことがあります。

結果で責めるのではなく、判断の基準となる考え方を示す。
それこそが、あるべきコミュニケーションの姿ではないでしょうか?
夫婦の性と愛を考える会が主催する第6回ミーティング 『産後セックスレスについて』にお邪魔してきました。

普段の仕事のメインターゲットは、若者世代の性の問題。また、僕自身も未婚・子なしのため、産後セックスレスのことは実感としてはまだ分からない領域でしたが、「角度は違えど、性の問題に取り組んでいる立場から、また男性という立場から、参加して下さい」と、会長さんに声をかけていただいたこともあり、勉強させていただこうという気持ちもあって、お伺いしました。

会の中では、参加者からの投げかけや雑誌に書いてある話題についてなど、色々な話が出ました。「産後セックスレス」とテーマを設定していても、セックスの話だけでなく、子育て期間中の夫婦の関係性の話や、普段のコミュニケーションの話など、色々なテーマとつながるものです。


★今日参加して、感じたこと など★

「目も合わせない、話もしない、手もつながない2人が、一足飛びに裸で抱き合うことはできない」
⇒性の話題はそれ単体ではなく、日常のコミュニケーションと深く結びついていると思います。だから、セックスレスや(夫婦も含めた)カップルの関係性をよくしたいと思ったら、日常のコミュニケーションにしっかり目を向けないといけないと思います。カップルコミュニケーション向上委員会というプロジェクトは、そういう考えでやっています。

「触れ合うことで伝わり合う」
⇒「人肌恋しい」っていうのは、本当にその通りの言葉だと思います。人間は人と通じ合っていることを実感する時に心地よさと安心を感じるものですが、それは「話が合う」「言っていることを理解し合える」といったメンタリティの問題だけでなく、肌と肌が触れ合っているという物理的なつながりについても言えると、改めて感じます。何も言わなくても、触れ合うことで落ちつけたり、つながりを感じたり、嬉しさや安心を感じたり。本当に不思議で、深いです。

「チームになれるかどうか」
⇒全然別な場所で子育ての話を聴いた際も、この話が出ました。
「彼氏と彼女」だった2人は、結婚すると「夫と妻」に、子どもができると「父と母」になります。呼び方が変わるということは、役割や関係性の認識が変化するということでもあります。「チームになれるかどうか」は、呼び方の変化に合わせて2人も変わっていく必要があることを感じる言葉でした。
子育てや家庭という大きなプロジェクトをチームとして一体にやっていける夫婦は、セックスも含めてうまくいく、という話は、とても示唆に富むと思いました。

「自分が苦しい時は、相手も苦しい」
⇒産後セックスレスで「セックスできない」と思っている方はすごく不満で辛かったり。そのことに目が向いて色々考えてしまったり。でも実はその状態を打破・解決する方法は、自分の苦しさとは関係ないところにあったり。「苦しさは自分と相手の考えや状態がミスマッチしてるから。どうやったら歩み寄れるか」そんなことを考えていけるようになると、少しずつ良い方向に変わっていくのかなと思います。これって、言うほど簡単なことじゃないですけどね。


今日参加されたみなさま、お疲れ様でございました。
お世話になりました。