我が趣味の古い器蒐集、楽しみながら細く長く続けております。今回は私にとっての「お宝」が手元にやってきてくれたので、ご紹介いたしませう。画像の「古伊万里霊芝文皿」二枚、直径五寸四分、高さ一寸ほどのものです。

 

この「霊芝」文様の器については、以前ここに書いたことがあるんです。「霊芝」とは、中国に古代から伝わり皇帝だけが摂ったとされる伝説的植物の「想像図」であり、それが「吉祥文様」として好まれたのではないか、と。

 

そして、私がこの霊芝文皿に初めて出会ったのが、九州陶磁文化館の「柴田コレクション」であったことも。あれから3年、ようやく佐賀で見た皿に近い寸法と文様の器を手にすることが出来ました。何とも言えぬ嬉しさです。

 

 

どうです、何とも緻密な美しい文様ではありませんか。円周を十等分して波線で囲いを描き、その中に2種類の植物が配置されます。円の360度を何等分するかで絵の細かさが変わって、私も十等分以上のものは知りませんね。

 

今回この皿二枚が私の手元に来てくれた理由は、ヤフオクで私以外の誰も入札しなかったから。画像からおわかりと思いますが、それはこの皿双方にある「直し」のためでしょう。でもそれが私には大いなる幸運であった次第。

 

 

一般的にこれら骨董磁器では、こうした「直し」の無い完品が至上とされ、直しのあるモノはグッと価値が下がると言われます。しかしそれは単なる市場価値でのお話であって、私にとってはこの直しこそが付加価値なんです。

 

この器に施された直しは、いわゆる「金継ぎ」というものですね。割れた破片をもう一度くっつけ、割れ目部分を金色で装飾する。使う素材は接着、装飾ともに主に漆で、これもひとつの日本の伝統技術と言えるものでしょう。

 

私にとっては磁器の市場価値など関係なく、そうした伝統技術が施された器は完品と同じか時にそれ以上の「美」という価値をもっている。市場価値と個人的価値のギャップが、この皿を私の元へ運んでくれたというわけです。

 

 

ヤフオクでは画像だけで判断し入札するため、入手してから知ったのですが、この皿には「直し」をした人のサインがありました。継がれた器には時々サインがあって、まさにそうした職人達が多く居たことを表していますね。

 

ただ、私がこれら「直し」の器を好むのは、伝統技術の美という点だけではありません。その根源にある日本人の美徳にこそ、我々が受け継ぐべきものを感じるからです。直して継いでまで器を使う、それは「勿体無い」の心。

 

これも以前ここに書いた話ですが、江戸時代の日本人は現代人よりずっとモノを大切にし、リユース・リサイクルを徹底していました。陶磁器も同様、割れた器をくっつけるのが専門の「焼継屋」なる職業があったくらいです。

 

令和のいま、SDGsなんて用語が叫ばれていますが、サスティナブル(持続可能)な行動とは即ち、モノやコトを慈しみ大切にする心からしか生まれないと想うんです。「勿体無い」という美徳こそ、我々が引き継ぐべきもの。

 

そしてこの古い皿二枚は、まさにその心を総身に纏っている。つくられてから最低でも200年、直されてからの年月は不明ですが、ずっと日々の暮らしの中で食器として使われてきた、これこそサスティナブルの象徴でしょう。

 

何だか偉そうなことを言っておりますが、上記のことを私はこの直した皿から感じるし、だからこそ己に、また現代人にとって高い価値をもつと想うわけです。まあ、時にそんな理由で骨董を蒐める輩が居てもいいですよねw。

 

via やまぐち空間計画
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