我が趣味の古い器蒐め、相変わらずひとつ又ひとつとモノが増えておりますw。今日の冒頭の写真、土瓶は以前ご紹介したものですね。でも手前左の黄瀬戸向付と右の手鉢は初のお披露目、どれも同じ陶房でつくられた器たち。

 

向付は口径三寸六分の高さ二寸三分、手鉢は直径六寸の縁高さ一寸。今日はこれらが同じ出自であること、そしてそれは何時、何処なのかを一所懸命に調べる中で見えてきたことを綴ってみようという試み、マニア向けですw。

 

 

結論から言うと、これらは全て「二代目・加藤作助」の陶房でつくられた器です。作助本人のでは無く、いわばスタッフである器職人の作。しかしそれは総合プロデューサーたる二代作助の意思、創意によって形になったモノ。

 

まず「加藤作助」とは何かと言うと、それは瀬戸は赤津で代々続く陶芸家に受け継がれる名前で、当代は五代作助さんです。では何故これらの器は三代前の作助のものだとわかるのか。それにはこの土瓶の箱書がヒントでした。

 

 

「古陶園 作介造」の書と「景正二十四世窯」の印がありますね。「四」の篆書体は「六」と紛らわしいですが、上の点が無いのでこれは四。「景正」は瀬戸焼の祖と呼ばれる加藤藤四郎景正を表し、その直系を名乗っている。

 

これを手掛かりに今度は古い文献をあたります。幸いにして「国立国会図書館デジタルコレクション」に、瀬戸焼の古い文献があった。その名も『陶器全集5 をはり(尾張)の花 花の巻』(小野賢一郎編 昭和7年)です。

 

 

この巻は、瀬戸陶工たちの系譜を詳述した非常な労作です。その「尾張国赤津窯の系譜」の項に、作助に至る記述がありました。まず窯の興りは「初世景元四郎左衛門は陶祖景正の十七世にあたり祖業を赤津に従事す」とある。

 

そして景元から七代目が初代の作助です。初代作助は景正から数えて二十三世、その記述をそのまま引用すると、

景清は文化五年赤津村に生る。生来陶法の妙手にして父の家を継ぐや作助と改め大いに業務を刷新せり。其の製する所の器は古法に倣ひ多く茶器又酒器の類を造る。其の作皆高尚にして雅致に富む。晩年壽斎と号して大いに其の名を博したり。明治廿六年十一月没す年八拾六。当代又作助と称す故に世人景清を呼で初代作助と称す。

 

 

そして次に二代目作助の記述が。景正から数えて二十四世となる彼は1844年の生まれ、古陶磁に倣った人でした。

景義は弘化元年八月赤津村に生る。長じて父の業を継ぎ作助と改む。爾来心を製陶に潜め傍ら古陶器を蒐めてその形式および製法を究むること夙夜怠らざりし。遂にその製品父景清に劣らざるに至り夜に明治の良工と称せらる。景義初号を古陶園春逸と称しその製品に春逸の二字を款したりし後、弟小三郎分家独立せるに際し春逸の二字を以て小三郎に譲り自らは作助又?の字を印す。現時赤津窯に於ける屈指の製陶家にして家声亦大いに賑わふ。

 

これで、箱書の「二十四世」の意味も「古陶園」なる言葉の意味もわかりましたね。そして次は陶印、今日ご紹介した三つの器には、全て同じ印が押されています。「作介」の周りにくるっと楕円を描いた次のようなものです。

 

 

これも色々と調べましたが、私の結論は、作助本人の印ではなく「窯の印」だということです。本人作と判明している器にこの印は無く、箱書に「古陶園」の文字も無い。そうやって本人と他の陶工の作を分けていたようです。

 

またこの印は三代目、四代目も使っていましたが、よく見ると少しずつ印影が違っているんですね。かなりマニアックですが、私はもう見分けられます。なので黄瀬戸向付と手鉢には箱は無くても、二代目の窯だと判別出来た。

 

まあこんな風にただただ好奇心に掻き立てられて調査を続け、自分なりの結論に至りました。150年ほど前の明治の器たち、本人の作ではなくとも、この二代目陶房の作にはどれも強く私を惹きつける美しさがあるんですよね。

 

ただ、三代目以降の作にはそれが感じられない。思うにそれは、二代目作助が古陶磁の研究から得た形や絵付け、施釉などの感覚が反映された何か、ではないか。それが当時の窯全体を統率する「やり方」だったのではないか。

 

今回の調査を通して、明治の名工・二代加藤作助は、ただ名工というだけでなく、指導者としても有能だったのだと感じられました。どれくらいの規模の、何人くらいの陶工を擁する窯だったのか、と更に想像が膨らみますね。

 

でも、作者が誰かなど本当はどうでもいいんです。自分にとって美しい器が、何故その美しさになり得たか、いつ頃如何なる製法でつくられたのか、強くそれを知りたくなる。作者を追う私の原動力は、ただそれだけなんです。

 

via やまぐち空間計画
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