『料理通異聞』   松井今朝子 著   幻冬舎時代小説文庫

 

久しぶりの松井今朝子女史作品です。本作のことは寡聞にして知らず、書店で見つけたもの。こう始まる裏表紙の文章を見て即決でした。「蔦屋重三郎の法要の膳を出すことになった福田屋善四郎。」私には気になる一文です。

 

江戸の一大出版プロデューサーたる蔦屋重三郎と同時代に生き、タイトルからしても料理を生業にする男の物語らしい、これだけの興味で読み始めました。江戸文化に惹かれ、一方で日常的に家族の料理をつくっていますので。

 

読了して知ったのですが、福田屋善四郎とは、『料理通』という本邦初の料理本を著した人物なのですね。ただその本は知らずとも、江戸の老舗「八百善」の名は流石に私でもわかります。主人公・善四郎はその主なのでした。

 

これを書くにあたり八百善のWEBサイトを見ると、現在は十代目の栗山善四郎さんがお店をなさっているようです。初代は八百屋で、八百屋の善四郎から八百善。本書の主人公は四代目、料理屋・八百善の名声を高めた人物。

 

『料理通』なる本の存在を知らず、故に本書タイトルの意味が掴めていませんでしたが、これは善四郎が料理屋として成長、大成し、料理の本を著すまでになった、その一代記なのでした。ちと珍しい時代小説と言えましょう。

 

江戸モノの手練である松井女史、これまでの作と同様、本作でも史実を基に様々な人間模様を紡いでくれています。また、「あとがき」にもある通り、今も続く八百善への入念な取材があったことが伺える濃密な内容でした。

 

本書がとりわけ興味深かったのは、ひとつには「江戸の料理」に触れることができた点でしょう。八百屋から身を起こし精進料理を得意としていた八百善が、善四郎の才気でその料理の幅を広げてゆく様はとてもリアルでした。

 

また、それにも増して「八百善」を訪れる客の面々が凄い。現在の八百善WEBサイトにも記載があるので是非ご覧いただきたいですが、当時の八百善は文治墨客の集い来る、いわば「文化サロン」の様相を呈していたのですね。

 

そのひとりが蜀山人先生こと大田南畝でした。戯作者・狂歌作家である彼を中心としたネットワーク、そのメンバー達が集いの場に多く八百善を利用したのだそう。江戸文人の知的遊戯である狂歌も数多読まれたことでしょう。

 

そしてもう一人は、江戸琳派の絵師・酒井抱一です。「江戸の絵師」を題材とした作は全て読むべしと考えている私ですが、酒井抱一が描かれた小説は初めてでした。それだけでもこの作品に出会えた幸運に感謝したいほどw。

 

姫路藩主・酒井家の次男坊だった彼は後に剃髪得度して僧侶となり、僧侶でありながら吉原に足繁く通い、また一方で絵師としてその独自の世界を追求する。八百善を可愛がった上得意でもあった彼の人間像が少し見えました。

 

他にも絵師では谷文晁や渡辺崋山も登場しますよ。これら文化人との交流を通して、善四郎もまた料理という己の道に磨きをかけ視野を広げていく。本書から強く伝わるのはそんな「江戸のサロン」がもつ磁場のような力です。

 

そしてその主が手掛けた本『料理通』にも、文人たちの強いサポートが。蜀山人や亀田鵬斎が序文、酒井抱一が挿絵、チラシの広告分は柳亭種彦。なんと贅沢な一冊!本書はまさに「文化の発信地」を描いたものでありました。

 

via やまぐち空間計画
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