軍人、役人、憲兵隊相手でも一歩も引かず中国人に愛された 国文学者 藤村作(つくる) | やもけんのブログ

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柳川の物語を集めて編んでいます。

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柳川市東魚町にある本光寺

本光寺さんの特徴と言えば
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2階に鐘がある楼門。

それと
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藤村作先生のお墓があること。

一体、藤村作先生とはどのような人物なのでしょうか?

1875(明治8)年に現柳川市坂本町に生まれた作は、
小学校時代に、富安保太郎(のちに衆議院議員で佐賀線敷線に尽力)の影響を受け
文学を読む楽しさを学びます。
本町小学校(現城内小学校)、橘蔭学館(現伝習館)、熊本の第五高等学校(現熊本大学)と進学しました。
第五高等学校では当時夏目漱石などの立派な先生が多く、
また国文学研究が注目されていたため作はその道を志します。
作は、近世文学を研究対象とした第一人者となりました。(井原西鶴や近松門左衛門、滝沢馬琴などは、それまでは楽しんで読む読み物だった)
のちに国文学界のリーダーとなります。

作の人柄は、定年後の生き方にもみられます。
1939(昭和14)年、定年して3年後、日中戦争のさなか
北京師範学院と北京女子師範学院の名誉教授の職に就きます。

そこで作が一番徹底したことは、
「中国人に対する差別的な意識の改め」です。
当時の状況でこの信念を貫くのは、大変なことだと思います。

しかし、作は役人にも軍人たちにも教育に関しては一切口出しさせませんでした。
ある日大学の土地を取り上げようとする軍部に対して
憲兵隊と交渉し体を張って守り抜いたこともあったといいます。
そのため中国の人たちは、
「藤村先生は他の日本人とは違う」というようになったそうです。


作は終戦3ヶ月前に日本に戻りましたが、
四女は後始末で北京に残っている時に終戦を迎えました。

この中国人と日本人の立場が一変した時でさえ、
作一家に好意を持っていた中国人は、
その四女に支援を惜しまなかったそうです。

柳川と中国の架け橋と言えば、
トモのなかでは、「安東省菴先生と朱舜水先生」だけでしたが、
この藤村作先生も架け橋になりうる人物だと思いました。

参考文献:やながわ人物伝 柳川市 平成21年発行


トモ