yamo-11のブログ
朝霧のおほに
相見し人ゆゑに
命死ぬべく
恋ひ渡るかも
意味は、
朝霧のようにぼんやりと
仲良く過ごしただけの人に
私は死ぬほどの思いで
恋し続けるのでしょうか。
この歌をよんだのは
笠郎女(かさのいらつめ)
です。
この歌は
万葉集(まんようしゅう)に
収められています。
万葉集は、
日本に現存する
最古の和歌集です。
「あなたと仲良く
過ごした時間はまるで
朝霧のように
ぼんやりとしたものです。
その記憶も薄れて
しまいそうなほどに。
それなのに恋ごころは
つのる一方で、
死ぬほど愛して
しまっているのです。
私はこのままあなたを
死ぬほど恋し続けるの
でしょうか。」
朝霧か夢かのおぼろな恋で
あったはずなのに
思いは燃える死ぬほどに。
思いは燃える命を忘れるほどに。
朝霧か夢かのおぼろな恋に
思いは燃える命忘れて。
仲良く過ごしたその人を
死ぬほどに恋してしまった
苦しい思いが伝わってきます。
けれども
死ぬほど恋することの
できる相手に
出会えた事は
とても幸せな事です。
恋の相手でなくとも、
出会いとは神秘的なもの。
もしそれが
人生の尽きない
苦しみの中で出会った
相手ならば
自分の苦しみを
たとえわずかでも
和らげてくれた
相手ならばなおさらです。
もしわたしならば
相手から与えられた愛に
限りない恩を感じて、
命に変えてでも
その恩を返したいと
願うでしょう。
受けた御恩は
永久に消えないのだから。
そしてこれまでに
自分に与えられた
数え切れない試練と苦難にも
感謝の気持ちを抱くでしょう。
なぜなら
苦難が無ければ
相手との出会いの
ありがたさは
与えられた愛の
ありがたさは
絶対に分からなかった
はずだから。
これまでの苦難は
いくらでも
流れくる自分の涙で
とかすことができる
はずだから。
この世の数多くの
苦しみ悲しみのなかで
私に与えられた愛は
闇を照らす宝石のようなもの。
私はその
与えられた愛に対する
力強い感謝の心で
生きていくことでしょう。
私は思います。
ただ生き永らえるだけの生に
いったい何の意味が
あるのかと。
愛することを忘れた生に
私は全く意味を
見い出せません。
私は自分の命を忘れるほど
何かを愛して
生きていきたいのです。
苦しくても悲しくても
その中でたとえわずかでも
真実の愛に出会えたならば
真実に愛することを
知ることができたならば
それで十分だと思うのです。
輝く日の光のもとで
ひらひらと舞う蝶よ。
私には分かります。
ただひたすらに
ただ無心に生きる
蝶の心は
いつも愛で燃えている
ということを。
ひたむきな愛で
燃えていることを。
蝶の心はいつも
清らかな
神の愛の心で
燃えているのです。
そこには
時間も感じられない。
空間も感じられない。
本当に真実に愛したら
そこには時間も空間も
何も無いのです。
そこにはただ愛が
燃えているだけ。
純粋に愛だけの世界なのです。
朝霧か夢かの
おぼろげなこの
はかない世の中も
心に燃える愛があれば
生きていくことができます。
あの
清らかな蝶のように
生きていけたら
私は幸せです。
ひたむきに神の心で
生きていけたら
私は幸せです。
ひたむきに愛だけに
生きていけたら
私は幸せです。
時間を忘れて。
空間を忘れて。
自らの命さえも忘れて。

心の中の愛に気づき
あふれる愛に生きた
心美しい女性の
ものがたり
「丘の上のジェーン」は、
カナダのモンゴメリの
かいた物語です。
ジェーンの両親は
仲たがいして
別居をしています。
ジェーンは母と祖母の家で
くらしています。
祖母はジェーンを
大切にしてくれません。
そして母はジェーンに
あまり愛情を
表してくれません。
ある日ジェーンは
父と共に暮らす事になります。
父はジェーンを
あふれる愛で
包んでくれます。
父のあふれる愛により
愛を知ったジェーン。
ジェーンは両親がまだ
愛し合っている事に
気づいて、両親を
仲直りさせようとします。
そのかいあって見事に
両親は仲直りします。
母と祖母の家ではほとんど
誰にも愛してもらえず
毎日辛い日々を
送っていたジェーン。
だから父の優しさが
心に染みたのです。
父からたっぷり愛される事で
自分の心の中にも
あふれるほどの愛が
ある事に気づきます。
その愛に気づいたジェーンは
両親に愛を与えることとなり、
彼らを仲直りさせる事が
出来たのでした。
ジェーンの愛が
動き出したのです。
こんこんとわきいでる
清らかな泉の水のように。
絶え間なく
とどまることなく
ジェーンの心から
わきいでる愛。
一度わき出した愛は
もう止まることはありません。
時を忘れたように
尽きることなくわきいでます。
ジェーンの愛は
わきいでる泉の水
のように。
愛は心のなかで
限りなくあふれていきます。
愛すれば愛するほど
愛の思いは強くなります。
それはまるで
純粋な恋ごころにも
似ています。
なだれのように洪水のように
心の中から愛が
吹き出してきます。
それにしても
命ははかなすぎます。
今有る命は明日も有るとは
限らないのだから。
あふれだす愛を与えたくても
その全てを与え切るその前に
あっという間に命は尽きて
しまうでしょう。
それはとても
残念で悲しいことです。
本当はもっと愛を与えたいのに。
本当はもっと愛したいのに。
だから
命がはかなく消える
そのまえに
そのつかの間の
わずかな時でいいから
ほんの一瞬でいいから
私の一生分を
今この時を
命をこめて魂をこめて
愛しましょう。
心に愛はあふれても
思うままに
愛することができない。
その大きな悲しみに
私の頬は涙に濡れます。
流しても流しても
尽きないその涙。
涙はきっと夜空に
輝く星になるでしょう。
数え切れないほどの
星の輝きになるでしょう。
美しい星の輝きは
いつかは
誰かの心に
愛を与えて安らぎを与えて
くれることと
なりますように。
そして私は強く望みます。
愛は限りないもの。
その限りない愛を
感じ取る事ができるように
いつも私の心が清らかで
ありますようにと。
いつも心が細やかで繊細で
ありますようにと。
この世において
限りなく細やかで
その繊細さを
限りなく増していくものは
ただ一つ。
限りなく清らかさを増し
透きとおる美しさを
限りなく増してゆくものは
ただ一つ。
まるでらせんを描くように
私の心のなかで
優雅に舞い続けるものは
ただ一つ。
私を突き動かし
泉の水のように
限りなく限りなく
あふれだすものは
ただ一つ。
それは愛。

ありとても
たのむべきかは
世の中を
知らするものは
朝がほの花
意味は、
今生きているからといって
これからもそうであると
頼りにすることが
できるだろうか。
この世の無常を
知らせてくれるのは
朝がおの花である。
この歌をよんだのは
和泉式部(いずみしきぶ)
です。
和泉式部は、
平安時代中期の歌人です。
「今はこうして無事に
生きている者とて
いつまでも無事に
生きていられるわけではない。
朝咲いたばかりなのに
その日のうちに
しぼんでしまう朝顔の花。
この花は見る者に
この世の無常を
教えてくれている。」
世の中のさまはとても
めまぐるしく
変化をつづけています。
この世においては、
ほんのわずかな喜びさえも
いとも簡単に消え失せて
しまうのです。
朝顔の花は自分の命が
非常に短い事を知っています。
でもたとえ一瞬でも
自分に愛がそそがれている事を
知っています。
この世に当たり前の事など
一つも存在しません。
そそがれた愛は
たとえ一瞬であっても
奇跡であり
自分自身が存在することも
奇跡であると
朝顔は知っています。
朝顔の花の心はきっと
愛と感謝の思いで
燃えているでしょう。
愛は永遠のものです。
一瞬一瞬の愛も
永遠のものです。
朝顔はその永遠の愛に
命を燃やして咲きます。
永遠の愛に
命を燃やして
今この時に
命の限りを尽くして
咲いているアサガオの花。
永遠の愛に命を燃やし
今を限りと咲けるアサガオ。
生きとし生けるものはみな、
命には限りがあります。
そして命の尊さはみな同じです。
でも私には
生きとし生けるものたちの
嘆きと悲鳴が聞こえるのです。
しゃべる事が出来ない
動植物たちは
ここで生きる事の息苦しさを
訴えているように感じます。
本当はもっと自由に
生きる喜びを生きる幸せを
体中で感じて生きたいと。
神からさずけられた命を
神の愛の心地よい
躍動感を感じながら
神の愛の心で生きる事が
一番の幸せであると。
私もまた
ただ涙を流すために
生まれてきたのでは
ないはずです。
愛をこの体全身で感じ
自らも神である事に気づき
生きる幸せを感じるため
笑顔で生きるために
生まれて来たはずなのです。
全ての生きとし生けるものと
調和してつながって
限りない愛を知るために。
生きることを楽しみ
そして
心ときめくすてきな恋を
するために。
心にまばゆい光が満ちて
一つ一つの命を尊び、
笑顔で、あふれる愛の心で
生きる世界。
それこそが、
全ての生きとし生けるものが
待ち望む
愛にあふれた
美しい世界です。
私の命もアサガオと同じく
とてもはかないものです。
だからこそ私に与えられた
今この一瞬一瞬に命をかけて
この命を燃やして
生きていきます。
私の心にあるのは
感謝と幸せです。
私に与えられた愛が
永遠のものと
知っているからです。
たとえはかない命でも
全ての生きとし生けるものが
待ち望む
あの愛にあふれた美しい世界の
ためならば
命を限りなく燃やして
いさぎよくこの生命を
なげうちましょう。
私にとってはそれこそが
一番の幸せなのです。
それができる私は幸せです。
おそらくこの世の誰よりも。
私には永遠の愛が
与えられているのだから。
この一瞬一瞬
私に与えられる
永遠の愛に
命を燃やして私は
生きていきます。
私が今ここにいること
ここにあるという
素晴らしい奇跡に
この世の全てのものが
ここにあるという
素晴らしい奇跡に
私の命がけの
感謝の思いをこめながら。

純粋でありながらも
はかなく消えた恋を
美しくえがいた
ものがたり
「みずうみ」は、
ドイツの
テオドール・シュトルムが
かいた物語です。
ラインハルトには
エリーザベトという
恋人がいます。
二人はとても仲の良い
恋人どうしでした。
やがてラインハルトは
勉強のために
町を離れる事になり、
それから二人は離れてくらします。
あるときラインハルトは
エリーザベトと2年間連絡を
とりあいませんでした。
そのあいだに
エリーザベトは
別の男性と結婚していました。
それから何年後かに
二人は再会します。
ラインハルトを見て
エリーザベトは
悲しみをあらわにするのです。
彼女を見てラインハルトもまた
胸が痛むのでした。
そんな時ラインハルトは
夜のみずうみに咲く一輪のスイレンを
見つけます。
ラインハルトは泳いでスイレンに
近づこうとしますが、
なぜか後少しのところで
そのスイレンに行き着くことが
できなかったのです。
美しいスイレンはまるで
手に入れられそうで
手に入れることの出来なかった
かつての恋人
エリーザベトのようです。
そのあとラインハルトは、
いさぎよくエリーザベトのもとを
立ち去ります。
朝の光の中を、彼女の方を
ふりむきもせずに。
夜の闇に咲いていた
スイレンの花のような
はかない恋を手放して
朝の光の中を
歩いていくラインハルト。
スイレンの花の恋が
きらめく朝の光の中に
消えていく。
きらめく光のなかに消えた
スイレンの花の恋。
ラインハルトは
後悔したかもしれない。
2年間も連絡を
取り合わなかったことを。
あれほど愛していたのに
もっと早くプロポーズ
しなかったことを。
でもエリーザベトは
二度と手に入れることは
出来ない過去の女性なのです。
エリーザベト
との恋はもう
過去のものなのです。
二度と手に入れることはできない
と分かってはいても、
過去の美しい記憶は
輝いて見えてしまうもの。
闇のなかに咲く
美しい花のように。
私の過去にも
美しい記憶が
美しい花となって
咲いています。
二度と手に入らないその花を
その花を思い出す度に悲しくて、
胸がはりさけそうになります。
残念なことに私は
過去が悲しいだけでなく
未来にも希望がもてません。
過去も未来もそのどちらも
私にとっては闇のなかにあります。
でも人はやはり
光無しには
生きられません。
だから私は
過去も未来も忘れて
ただ今だけに
生きると決めたのです。
今という時のなかにだけは
愛のぬくもりを
感じることができるから。
私を生かしてくださる
神の愛のぬくもりを。
その愛は一瞬一瞬
たえまなく
私にそそがれています。
やさしく導いてくださる
神の愛の光が
今という時の中できらきらと
輝いています。
神の愛を信じて
神の愛に身をゆだねて
私は生きていきます。
神から与えていただいた愛は
そして
この世の全てから
与えられた愛は
あまりに大きすぎて
生きている間に
恩返しすることはできない
ことでしょう。
けれども私は
与えられた愛に
感謝の思いを
伝えたくて
生まれて来たはずなのです。
この世のありとあらゆる
全てのものを
愛するために
生まれて来たはずなのです。
そして
本当に愛することを知ったとき
私は気付くのです。
愛する思いには
かぎりがないことを。
その愛のかぎりなさを
知るために
私は生きているのです。
この世のすべてのものを
かぎりなく
愛するために
私は生きているのです。
それは
この私の命をかけるに
値するものです。
それは
この私の魂をかけるに
値するものです。
それがどんなに
厳しい道になるかは
知っているけれど。
私は生きるのです。
この困難の多い
いばらの道を
ただひたすらに。
私が心から本当に
愛するとき
私の心は光で満たされます。
その光の中に
私の過去の記憶の中の美しい花も
あとかたもなく消えていきます。
私はいつまで
生きていられるか
分からないけれど。
私の命はいつ尽きるのか
分からないけれど。
それでも私が生きて
いられるあいだは
この一瞬一瞬の
今という時の中に
かぎりないかぎりない
愛をこめて
生きていきたい。
そのために
私は生まれて来たのだから。
かぎりなくかぎりなく
愛するために
私は生まれて来たのだから。
私のその愛がいつしか
美しく輝く
きらめく光となるまで。
この世を永遠に
明るくてらしつづける
そのきらめく光のために
私のこの命を
この命の尽きるまで
使いたくて
私は生まれて来たのだから。

君恋ふる
涙しなくは
唐衣(からころも)
胸のあたりは
色燃えなまし
意味は、
あなたを恋して
流す涙がなければ
私の衣服の
胸のあたりは
思いの火で
燃え上がって
しまうだろう
この歌をよんだのは
紀貫之(きのつらゆき)です。
紀貫之は、平安時代
前期から中期にかけての
歌人です。
「あなたを恋して
あなたが恋しくて
あなたを思うと
心はいつも悲しくて
私の頬をとめどなく
涙が流れる。
私の思いの火は
激しく燃えている。
とめどなく流れる涙が
この思いの火を
消してしまわなければ
私の衣服の胸のあたりは
燃え上がって
しまうだろう。」
涙で恋の思いの火を消す
といいます。
しかしながら
思いの火があまりに激しく
燃えていたならば
涙を流しても流しても
流れる涙が心を
ぬらしてもぬらしても
涙はその思いの火を
消すことが出来る
ものでしょうか。
涙を流したからといって
激しく燃えさかる
恋ごころの火を
消すことが出来るとは
かぎらないと
私は思うのです。
流れる涙に心はぬれても
激しく燃える恋ごころ。
本気に人を恋したならば
その思いは炎のように
激しく燃えて
もはや自分でもそれを
止めることはできない
はずだから。
そうなるともう
涙を流しても流しても
その思いは増す
ばかりであるはずです。
人を愛する思いは
限りがないもの
尽きることのないものです。
愛することは
限りがないものであり
愛する思いは
尽きることもありません。
そして涙は
枯れたと思っても
決して枯れることは
ありません。
愛も同じく
愛しても愛しても愛に
決して終わりはない。
そして悲しいことに
この世には
あまりに苦しすぎて
涙さえ出ない経験をしている
人もいれば
どんなに苦しくても
涙を流す事さえゆるされない
非常に困難な
状況の人もいます。
それを思えば私の毎日が
たとえ涙にくれるもので
あったとしてもそれはとても
ありがたいことです。
それにしてもなぜ
全てがいつか夢のように
はかなく消えてしまう
この世において
今この時しか
出会えないはずの
生きとし生けるものどうしが
愛し合えないのでしょう。
これほど残念なことは
ありません。
今あるすべてを愛して
生きていけるなら
これほど幸せなことは
ないはずなのに。
私の心はこれからも
涙にぬれている
かもしれない。
でも愛する思いだけは
決して消えることは
ありません。
愛する思いは愛のすべては
神なる存在から
いただいたものだから。
神の愛がある限り私は
愛する事を絶対に
忘れることはありません。
苦しみのあまり
涙も出ない人のため
たとえ苦しくとも
泣くことも
ゆるされない人のため
枯れることのない
私の涙を流しましょう。
涙を流せば流すほど
私の心の中の愛は
燃えさかります。
何者をも
これを止めることは
できないのです。
私は信じています。
いかなるときも
愛することを忘れずに
生きていれば必ず
光はもたらされることを。
私一人の力はとても小さいと
知っているけれど。
命をかけてのぞめばいつかは
この世界が変わることを。
この世界が
悲しみ苦しみの無い
光り輝くやさしい光で
満たされたものとなることを
涙が出るほど私は
願っているけれど。
私の心の中のその世界は
あまりに美しすぎるから
私の願いがかなうのは
私の命が終わりを
むかえたあとかもしれない。
私はそれでもかまわない。
私は今を生きるだけ。
尊い神の愛を信じて
今を生きるだけ。
神によって救われた私の命よ。
私の望みは私の使命は、
神の愛の心で生きること。
だから今は
それだけのために
愛することだけのために
この命を
炎のように燃やしましょう。
限りなく限りなく。
愛することだけのために。
私が
愛すれば愛するほど
とめどなく流れてしまう
決して尽きることのない
私のこの涙とともに。

愛を与えつづけて
生きた
美しい心をもつ
女性のものがたり
「スウ姉さん」は、
アメリカの
エレナ・ポーターのかいた
物語です。
スウはピアニストに
なるのを
夢見ている女性です。
でも母親が亡くなってしまい
スウは父親の介護と家事に
追われる毎日をすごします。
やがて父が亡くなります。
すると弟と妹がスウに、
自分達の身の回りの世話を
してほしいと言います。
どうしてもピアニストに
なりたいスウは、旅に出ます。
でもそこで、誰か一人からでも
人に必要とされる
ことが本当の幸せだと
気づきます。
スウはピアニストに
なることをやめ
弟と妹の世話をすると決心します。
すると弟妹は
ある人物のおかげで
気持ちをいれかえていて、
スウにピアニストの道に
進むように
言ってくれたのです。
そのうえスウは、
それからある男性からの
プロポーズを
受けることになるのです。
物語はここで終わっており
その後のスウが
どうなったのか書かれていません。
私はスウがその後も
誰かに必要とされるため
愛を与え続けて生きたと思います。
この世は夢のように
はかなくいずれは
全てが幻のように消えてしまいます。
でも愛だけは
人を愛する心だけは
永遠に消えないと思うのです。
愛こそが永遠に消えない美しい夢。
私は美しい心のスウは
きっとその後も
愛に生きたと思います。
愛に生きるスウの
永遠にさめない美しい夢。
この世は夢幻のようなもの。
それは分かっているつもりです。
でも残念なことに
私の心からは悲しみが
消えることがありません。
過去を思い出すとつらく、
未来を思うと恐怖と不安だけ。
過去と未来がつらすぎて
今しか生きる事は出来ないのです。
私は気づくのです。
私が生きられるのは
ただ今だけだと。
いつも悲しみの涙を
流すことしか
出来ない無力な私。
私に出来るのはただ
今だけを見つめて
この世にあるもの全ての幸せを
祈りながら生きることだけです。
この今にこの私の全てをこめて
祈ることだけ。
涙を流しながら
愛をこめて祈ることだけ。
でも
私の悲しみの涙が
この世の悲しみの涙の全てが
喜びの涙に変わる日が
必ずくると信じています。
美しい夢のような
愛にあふれた世界を
この目で見ることの出来る
日が必ずくると
私はかたく信じています。
だから私は決して
あきらめはしない。
美しい心のスウのように
こんな私でも誰か一人からでも
必要とされる人になることが
出来ますように。
愛を与え続けて愛に生きることが
出来ますように。
私が私の心から愛を発する時
それは
永遠にさめない美しい夢となる。
どうかさめないでこの夢だけは。
神からさずかったこの命の全てを
愛に生きることのために
使い果たしましょう。
今この時をこの一瞬一瞬を
神から与えられた尊い愛に
感謝の思いをこめながら。
この一瞬一瞬を
愛を与えることだけのために
ただ愛することだけのために
生きていく。
私の悲しみは永遠に
消えないかもしれないけれど。
愛に生きることは
永遠にさめない
美しい夢なのだから。
私はいつまでも
その夢のなかにいたい。
この世の全てに感謝して
生きるという
この世の全てを愛して
生きるという
永遠にさめることない
美しい夢のなかに。

愛の心をもつ
美しい一人の女性の
ものがたり
「三色すみれ」は、
ドイツの
テオドール・シュトルムが
かいた物語です。
少女ネージーは
母を亡くしています。
ある日継母(ままはは)が
やってきます。
継母はイネスといいます。
ネージーは
本当の母が恋しくて
たまりません。
だからイネスにどうしても
なじめません。
ネージーの父は
ルドルフといいます。
ルドルフの心の片すみに
亡くなった妻がいることを
ネージーは感じとります。
ネージーが
自分になじんでくれない。
夫が本当に自分を愛しているか
信じることが出来ない。
そのせいでイネスは
とても苦しみます。
それから
イネスはルドルフの
子供を産みます。
イネスは出産後に
体力が落ちて
命の危険にさらされます。
そんな時ネージーが
イネスのことを大好きだと
言ってくれます。
幸運にもイネスは
回復します。
ネージーの言葉が
きっかけになったのか
それからイネスは
生まれ変わります。
イネスは
ネージーの思いも夫の思いも
受け入れて
二人を心から
愛するようになります。
するとイネスの
かつての苦しみは消えて
幸せを感じる事が出来るように
なったのです。
運命という風にまかせて
愛の心で
生きることを決めたイネス。
それはまるで
風にゆられながら咲いている
可愛らしい
三色すみれの花のようです。
イネスの愛の心は
風にゆれる三色すみれの花。
咲く花は風にゆられ
いかなる風も愛して
風にその身をまかせています。
だからこそ花は美しい。
生きていると
さまざまなことが
わが身におこります。
わが身におこる
すべてを受け入れることは
すべてを愛して生きることは
大切なことです。
けれども
私の心はどうしても
何かを受け入れるたびに
あふれでる悲しみの涙を
止められないのです。
私を悲しませるのは
それだけではありません。
時おり聞こえてくるのです。
動物や植物やありとあらゆる
生きとし生けるものたちの
悲痛な声が。
これはもしかしたら
この世が始まってからの
全ての悲しみで
あるかもしれない。
この世の
苦しみ悲しみの全てを
私一人で負うことは
絶対に無理なことだとは
分かっているけれど。
私の悲しみはきっと
生きとし生けるものの
全ての悲しみ。
私が聞く悲痛な声はきっと
生きとし生けるものの
真実の悲しみの声。
もしもこの世の悲しみが
私の流す涙で
少しでも減るならば
私のこの涙を
いくつでもいくらでも
ささげることに
いたしましょう。
神なる存在は私に
一瞬一瞬たえまなく
尊い愛を
与えてくださいます。
与えられたこの愛に
感謝をこめて
私は他者に
自分を与えたい。
そのために
私は祈りつづけます。
苦しみ悲しみが消え去って
光り輝く美しい世界になるまで。
私の心の中にはすでに
光り輝く世界が存在しています。
そこでは
まばゆい光の中で
色鮮やかなたくさんの花が
咲き乱れています。
それは
ひと目見たら忘れられないほど
美しく麗しい世界。
それをこの目で見るには
まだまだ遠い先のことで
あるかもしれないけれど。
それまでは
この世に生きとし生けるものの
悲しみを決して無視することなく
その悲痛な声を一つ一つ
耳をすませて聞いていきます。
悲しみのすべてを
愛の祈りに変えていきます。
力強く心をこめて。
私の魂をこめて。
この世にある悲しみを
決して無駄にはしません。
出来る限り私がそれを
愛の祈りに変えていくから。
私は
たとえ涙をこらえることは
出来なかったとしても
たとえこれから
どれほどの涙を
流すことに
なったとしても
わが身に起こることの
すべてを受け入れ
すべてを愛して
生きていきます。
神の愛を信じて
生きていきます。
神の愛に身をゆだねて
生きていきます。
風に身をまかせて
いかなる風も愛して
咲いている
あの可愛らしい
三色すみれの花のように。
清らかな清らかな
愛の心で。

やさしい心をもつ
少女の美しい幸せを
えがいたものがたり
「リンゴの丘のベッツィー」
は、
アメリカの
ドロシー・キャンフィールド・
フィッシャーがかいた
物語です。
両親のいない女の子
ベッツィーは、
フランシスおばさんと
暮らしていました。
でも事情があって
おばさんの元を離れる
こととなり
ある農場の家にあずけられる
ことになります。
ベッツィーは初めは
全くちがう環境に
とまどいます。
そして彼女は
さまざまな試練を
のりこえて
成長していきます。
彼女は初めは
農場の家の家族たちが
きらいでした。
でも家族たちの
優しさに触れていくうちに
農場での生活が
大好きになっていったのです。
ある日フランシスおばさんが
ベッツィーをむかえに来ます。
フランシスおばさんは
ベッツィーが
おばさんの所に喜んで
戻ろうとするだろうと
思っていました。
しかしベッツィーは
農場に残ることに
決めるのです。
農場での生活の中に
自分の幸せを
見つけ出したからです。
花のように美しい幸せを。
ベッツィーの心に咲いた
花のように美しい幸せ。
どんな環境でも
幸せは見つけ出すことが
できるということを
この物語は教えてくれます。
目に見える世界は
本当にままならぬもの。
目に見える世界ばかりに
幸せを求めると
限りない苦しみと悲しみに
おそわれて
心は無惨にも
くだけちります。
幸せは自分の心の中にしか
見つけ出すことが
できないものです。
見つけ出したときに
やっと心に
花のように美しい
幸せが咲きます。
自分の心の中に感じられる
自分に与えられた幸せを
一つ一つ
大切に数えながら
私は生きていきたい。
そして
与えられた幸せの一つ一つに
強い感謝の思いを
こめながら生きていきたい。
不思議なもので
感謝は感謝を呼んで
ますます感謝すべきことが
見えてくるものです。
神なる存在は
一瞬一瞬
休みなくたえまなく
私に幸せを
与えて下さいます。
私が喜びと幸せの中に
生きることを最も
望んで下さっているのは
神なる存在あなたです。
大いなる神の愛の
力強さは痛ましいほどで
私の心を突き刺すほどです。
そして
神の愛に対する私の思いも
常に火のように激しく
燃えています。
神よ
あなたの愛のおかげで
私の心にはいつも
美しい花のような
幸せが咲き
私の心は幸せに
満たされることが
できるのです。
神から与えられた幸せの
そのひとかけらさえも
逃すこと無く
その全てに対して
一瞬一瞬
感謝をしながら
生きていきたい。
神よあなたに
命をさずけられ
そして命を救われた私の
その感謝の思いは強い。
それはまるで
激しく燃える火のようです。
神よあなたから
与えられた愛に対して
私は
ほんの少しでも
ほんのわずかでも
恩返しできる日が
くるでしょうか。
私は
いつまでも
あなたに
届けつづけたい。
私の命をかけた
熱く強い感謝の思いを。

さゆりばの
しられぬ恋も
あるものを
身よりあまりて
ゆく蛍かな
意味は、
ひっそりと咲く
ゆりの花のような
人に知られない恋も
あるのに
その身から
その思いが満ちあふれて
飛んでいく
蛍であるなあ。
この歌をよんだのは
藤原定家
(ふじわらのていか)
という男性の歌人です。
「ひっそりと咲く
ゆりの花の恋は
人に知られることは無い。
でも蛍の恋は
その思いが強すぎて
身からあふれ出た
思いが火のように
燃えさかり
身から光を放っている。
本気で恋してしまったら
その思いは
かくすことの出来ない
ものであるのか。」
燃えさかる
恋ごころをかくしきれず
光り輝いて舞う
美しいほたる。
光り輝いて舞うほたるの
燃えさかる恋ごころ。
蛍が放つ光は
夜の闇の中でこそ
その美しさが
引き立つものです。
けれども
夜の闇の中にいると
きまって私は
心の奥にひそんでいた
悲しみが
うずきだしてしまうのです。
次から次へととめどなく
あふれ出す悲しみの涙。
私は感じています。
この涙はおそらく
わが身の悲しみからの
ものだけではないと。
この涙はきっと
これまでこの世に存在した
全ての愛ある者たちの
悲しみではないかと。
恨みごとも言わず
涙を流す事も出来ず
ただ愛を与えるだけ与えて
その命をその身を散らして
消え去っていった者たちの
悲しみの涙。
自然や植物や動物など
言葉を使えない
あらゆる者たち。
そして目に見えない
神という尊い存在。
全ての愛ある者たちの
数えきれないほどの
多くの愛の一つ一つが、
私の涙となって、
その存在を教えてくれます。
これら愛ある者たちが
その身をぎせいにしてまで
この私の命をこれまで
つなぎとめてくれました。
教えてくれました。
命の尊さを。
この尊い命を
ただ一つのことだけに
使いましょう。
ただ
愛することだけに。
命はとてもはかない。
けれどもその命が放つ光は
永遠のものであるはず。
この世の全てを愛しながら
命を燃やして放つ光は
永遠のものであるはず。
まず自らが燃えて
光となってこの世界を
てらしていきましょう。
自分以外のどこにも
光を求めることなど
出来ないのだから。
そしてそのことが
これまでに与えられた
数多くの愛に対しての
せめてもの
恩返しでもあるのだから。
夜の闇の中で
光を放ちながら舞う
美しい蛍も
そして
夜の闇に輝く
美しい星も
その優しい光は
人の心にいつも
愛を与えてくれます。
神にさずけられた
この尊い命の
この命の終わりのその時まで
この命の炎を
限りなく燃やし尽くして
生きて行きたい。
この世の全てを愛する
この世の光として。
たとえその光が
とても弱々しいもので
あったとしても
わずかでも
世をてらす光として
生きることが
出来るのであれば
それでいい。
わずかでも
人の心に
愛を与える光として
生きることが
出来るのであれば
それでいい。
私はほかには
何も望まない。

愛にあふれた
清らかな心をもつ
美しいお姫様の
ものがたり
「野の白鳥」は、
デンマークの童話作家
アンデルセンの
かいた物語です。
ある国に11人の王子が
いました。
やがて王子たちには
まま母ができました。
彼女は意地悪な人でした。
まま母は
11人の王子をなんと
白鳥の姿に
かえてしまったのです。
王子たちには
エリサという
美しい妹がいました。
いらくさ
(葉と茎にとげのある植物)
でくさりかたびら
(体を守る服の一種)を
11枚ぬえば
兄たちを救える
ということを
エリサは知ります。
エリサは
さっそくぬい始めます。
いらくさのとげのせいで
エリサの体は
燃えるように激しく
痛みます。
そしてまた
ぬい終わるまでは
エリサが一言でもしゃべると
兄さんたちは
死んでしまうのです。
ある日エリサが
墓にいらくさをつみに
行った事が原因で、
エリサは魔女であるという
疑いをかけられます。
エリサは
しゃべることが出来ず
本当のことを言えず
とうとう死刑にされる
ことになります。
死刑場に向かう途中も
エリサはくさりかたびらを
ぬい続けます。
まさに死刑にされようと
したその時、
エリサは11枚の
くさりかたびらを
兄である白鳥たちに
向かって投げます。
するとようやく
兄たちは人間の姿に
戻ったのです。
エリサもやっと
無実だと
認められたのでした。
魔女の疑いをかけられても
兄たちの命を救うため
一言もしゃべらず
自らの命をもおしまぬ愛で
いらくさの痛みに
たえ続けたエリサ。
心やさしい
お姫様エリサの
命をもおしまぬ愛。
死を目前にしても
エリサの心は兄たちを
救いたいという深い愛で
あふれていました。
私が感じる深い愛。
それは
たえまなくそそがれる
神なる存在の愛。
私が神の愛をこれほと
強く感じてしまうのは
きっと私の心にある
深い闇のせいです。
私の心に存在する闇。
ぬぐいたくても
ぬぐいきれない
私の心の中の深い闇。
悲しいことに
とても残念なことに
私の心には
おどろくほど闇が多く
それも
とても深いのです。
だからこそ私の心は
何者よりも光を必要とし
光でありたいと
心の底から
強く強く願わざるを
得ないのです。
神なる存在は
こんな私であっても
赦し(ゆるし)
全てを受け入れて
愛を与えて下さいます。
そのことに対する
感謝の思いを私は
とても言葉で表すことは
できません。
私の心に
深い闇はあろうとも
神の愛への感謝の思いは
私の心から絶対に
離れることはありません。
神の愛によって
私の心が救われたように
今度は私が
誰かにとっての
かけがえのない光となり
誰かにとって
なんらかのかたちで
愛を与えることが
できますように。
その愛でこの世界を
あざやかに明るく
美しく輝かせることが
できますように。
私が祈りはじめると
神の愛への
おさえきれない感謝の思いが
私の目から涙となって
あふれ出てきます。
私の一日は神の愛への
感謝に始まり感謝に終わる。
神の愛への感謝の思いが
私の生きる力となる。
いらくさのとげのような
悲しみが私の心を刺し
燃えるような痛みに
おそわれたとしても
その心の痛みよりも
私の心の
神の愛への
感謝の思いの方が
ずっとずっと
大きいのだから。
私の祈りに
私の感謝の思いの
すべてをこめて。
私の祈りに
命をもおしまぬほどの
私の深い愛をこめて。
私の祈りに
私の心にある愛の
すべてをこめて。
私の祈りに
私の魂のすべてをこめて。
私は祈りつづけます。
祈ることで
必ずや何かが
変わる気がするから。
いつかきっと
心ときめく
美しい奇跡が
おきることを
信じているから。


