逆転裁判4の2話をレビューしていこうと思ったけど今日は疲労感がなかなかなので、いったんお休み。ただなんか書かないと明日や明後日レベルの日はわからんけど遠くないうちに書くのサボりそうだからね(笑)

 

 私は結局何が書きたくて逆転裁判4の記事を連投してるかといえば、結局のところ逆転裁判4の巷の評価が個人的評価に比べて低すぎたことに納得がいかなくて、楽しみ方講座みたいなものを残したいみたいなところがあるのかもしれないと連投していく中で思った。好きな作品の魅力語るの自体好きだし、魅力がないと世間が判断しても楽しく遊んだ自分もまた絶対的にいるわけで、それならどういうところが面白かった、楽しかったのかをレビューという形で残してみた。そしたらこんなところが深堀りしたら案外と面白味のあった部分だったのかって書きながら気が付いたり、考察の中でつじつまの合わなそうなところを理由付け無理くりしようと思ったら無理なく自然にできたりして「ああこれ意図されてんな」って気が付いたりで楽しく書けてたし思った以上に思ってること書き出すことって有意義で楽しいことなんだなとも思った。

 とまあ、そんな風におせっかいじみた楽しみ方講座風レビューブログになってきたわけだけど、こんな風に自身の見解を一般に公開するっていうのを実際やってみると、逆に感想文や質問・疑問をなにがしかの学習の機会に触れた際にすんなり出てこない人に思いをはせることがある。理由はシンプルに興味がなくて思うところがなかったり、思ったことを表現する語彙がなかったり、思ったことがあっても周囲の期待に添わないとと強迫観念を自身に課して思ってもないことを話そうとしてうまく言葉が出てこなかったりとか色々あるんだろうと思う。

 だけど、一貫して言えるのは自身の見解を持つ、ないし疑問を持ってその解消のために行動しないと、本当のことが何一つわからずあらゆる意味で自分を守れないというか、人から与えられた情報が全て本当に思えて腹落ちしない情報に振り回され納得のない人生を生き、なんでも人のせいにする人生か、今だけ金だけ我先にといった観念に支配される寂しい人生になる。

 だから間違っててもいいから、自身の見解、感想を持ってそれを前提に情報を深堀り、間違いがあれば正したり間違っている人に教えたり、情報を他者と共有しアップデートして生きていく力を養わないといけないと思う。まず否定から入る人、これで全部と決めつけがちな人、人の不幸が喜べる人、これらの性質を持つ人は自身の常識に頑固で、自身の見解をしっかり持つ人が逆に頑固に見えたり幸せそうに見えたり羨ましく見えたりととにかく自身の情報のアップデートを怖がる。

 自身の見解を持つ人は実は持たない人が言うほど頑固ではなく、間違った見解だと気が付いたらあっさり正すし、常識の方を疑い思いもよらないアイディアを出して状況を打破するきっかけを作ったりと案外と柔軟だったりする。なぜなら情報のアップデートは望むところで、自身の見解を取り込んでさらに上を行く概念を目にしたらそれを自身の見解として新たに上書きできるからだ。

 少なくとも自身の見解に固執してるつもりは私自身ないし、人の不幸が嬉しく思えたことはない。自身の見解が十全正しいと思ってないから、本質さえズレてなければ手段や印象に左右されず正しいと思える他者の見解に理解を示す余白が心の中に常にある状態だし、わざわざ怒りを表明しなくても自身の機嫌は自身でとれる。

 しばしば無感情だとか言われることが多いけど、怒りの表明がもたらす様々な損失を考えたらまだましだろうと思う。幸福感は自家発電できるから人との比較なしで幸福に生きていける。

 

 なんかつらつら書いたけど、シンプルに言うなら逆転裁判4やってる間、私は幸せでしたよ、ということで今日はこの辺で。

明日もいい日でありますように。