「人が怖い」のは、常に親たちから攻撃されて育ったからだ。
本来安全地帯である「家」が安全ではなく、24時間奇襲の脅威にさらされていたせいである。
他人の「不機嫌」が怖くてたまらない。
HSPの私は、他人のほんの少しの感情の変化に敏感に気づく。
表情、声。
他人がアウトプットする情報を瞬時に分析し、そこにあるネガティブな要素を恐怖に感じるのだ。
例えば、相手の怒りが自分に向けたものではなくても、それは恐怖である。
以前、ふらっと出かけた地元で有名なお寺で、その日は座禅会があり、たまたま時間のタイミングが合ったので参加してみた。
そこで、全く知らない人が警策(お坊さんが持ってる棒)でバシッと叩かれているのを見て、動悸がして呼吸が苦しくなってしまったのだ。
私にとってあれは「暴力」としか思えなかった。
とても恐怖だったのを覚えている。
私はずいぶん前から、土日に行っている田舎スーパーのバイトを辞めたいと考えていた。
8月末が契約満了なので、そのタイミングで辞めるつもりだったが、体力的にキツイ、能力的に合わない仕事のため、7月いっぱいで辞めようと思ったのだけど。
それを、店長に言えない。
先週の土曜日、もう、その場にいるのが耐えられないくらい、バイトの仕事が嫌だった。
なので翌日の日曜日、腹を括って退職意志を告げようと思った。
でも、店長が怖くて言えない。
そこで自問してみたのだ。
いったい私は、何をそんなに恐れているのか?と。
「辞めたい」と言って、「No」を言われるのが怖いのか?
いや、違う。
「ワガママだ」と責められるのが怖いのだ。
「辞めたい」と考えること自体が許されない…、そんな感じ。
それは「相手の期待を裏切る行為」だから、だ…
じゃあ、8月末の契約満了で辞めるならいいのか?
いや、それも違うだろう。
今度は「更新しない」ことで責められるのが怖いのだ。
結局、相手の言いなりになっていれば攻撃されない。
我が家の親たちとの関係がそうだったように…
「辞めるのは権利だ」
そう自分に言い聞かせて、店長に退職意志を告げた。
一応理由を訊かれたので、「体力的にキツイので」と答えたが。
(しかし、この後、話の流れが変わり、やはり8月末まで居ることになってしまった…)
今朝もそう。
派遣の仕事を休みたいと、怖くて上長に電話できない。
高熱が出た時には仕事に行けなかったので、休みの連絡をすることには抵抗がなかった。
けど今日は、「行っても仕事がないので休みたい」というホンネがあった。
でも、それをそのまま言えないから仮病を使うか?と悩んだが、「家の用事があるので休みたいのですが、大丈夫でしょうか?」という言い方にした。
何事も、できるだけ穏便に、平和的に解決したい。
できればみんなが丸く収まるようにしたいけれど、それは不可能なことだと分かってはいるが。
「自分さえガマンすればいい」とまでは思っていない。
でも、相手の意に逆らって攻撃されるよりは、嫌でも従っていた方がいいと思ってしまう。
だから「ちょっとだけガマンすればいい」くらいは思っている。
けれども最近は、その「ちょっとだけガマン」も難しくなってきてしまって…
根本解決の必要性があることは否めない。