夜話 1738 八女市岩戸山歴史文化交流館への期待 | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話 1738 八女市岩戸山歴史文化交流館への期待 


旧資料館は別名「伏魔殿」と呼ばれていた。

その原因については このブログで過去に再三触れ 「磐井」に代わって われらも祟った。


先日「新館がオープンしたので開館時間に合わせて自宅から往復約四キロの道を歩いて見学に出かけた。 新館の正式名称は「八女市岩戸山歴史文化交流館」という。

新館は小高い長峰丘陵上にある。

のぼりつめるのに いささか疲れた。

開館時刻がすぎても開館しないので疲れは倍増した。

入館路が鎖で閉じられていたのである。

くさりを股ごえしてやっと 入館できた。 

館長以下の職員のみなさんが くさりの除去をお忘れだったらしい。


新館長はかって お互い文化財専門委員として旧知のひと。

名刺に館長職名と並行して 珍しくも『某大学名誉教授』とある。

この館長は旧資料館開館時の図録作成者でもあった。

早速 旧展示図録の誤りを指摘し訂正を求めたところ「事務的なことは館長の職務ではない」として断られた。

館長職名に並行してあった「名誉教授」とやらの肩書きらしいものに付き合うヒマは当方には無い。

早々に館長室から退室し「展示品」さえ見る気なく帰途についた。


あのかた 事務処理までの職務のある館長ではないのか。

正職員ではない嘱託職員のはず。

自分の職域に気づかずの発言と思ったので このブログで「事務的」に新館長の誤りを指摘してみる。


その旧資料展目録のトンデモナイ誤りをその場で指摘しても その重

大な誤りにお気づきにならなかった。


文化庁が誤って それらの石人を「残欠」扱いしたためにオオゴトになったこともどうやらご存じないと見受けた。 

誤った認識による資料展図録の作成が どれだけ磐井研究の妨げになつたことか お気づきになっていらっしゃらないようだ。

糺すのに 我らも 市教委も どれだけの時間をかけ また どれだけ文化庁が恥をかいたか。 最大の恥かきは当時文化庁の調査官であり前九州国立博物館長だったМさんだった。

その「石人残欠」は 市民の指摘により 「天覧石人」だったと気づいた文化庁は慌てて指定名称を変更して重文に追加指定した。

これまた 話にならない国の大失態だったが これらのこともご存じあるまい。


そして 皮肉にも この「石人」こそ新館資料の第一級の位置を占める石人である。


明治期早々 東京国立博物館が購入し同館に展示している重文の「扁平石人」(右)と同時に出土した石人(左)であり「岩戸山古墳」を代表する出土資料であることも ご存じないのではあるまいか。 

まず自分が作成した資料展図録の誤りの校正に責任を取るべきでは

あるまいか。肝心の図録は八女市に大恥をかかせたまま、しかも有料で販売したもの。

1000円を支払った我らには作成者の正誤表を要求する権利がある。               

公の出版物の責任と批判は永久に残るのは当たり前。




「あの新館の『磐井』についての説明は一方的でありすぎ お粗末」と

某郷土史家は言った。

『日本書紀』に偏った案内職員の説明だったらしい。 

新館長は尋ねもしないのに 誇らしげに「自分の磐井観は『日本書紀』に依る」と申された。


磐井を語る『古事記』『風土記』『日本書紀』は いずれも磐井時代から

二百年後の記録であり 同時代資ではない。

それらの案内説明が一方的であるならば磐井の資料常設展はお粗末と言われても仕方あるまい。


「磐井の乱」の性格を判断するのは見学者個人の問題。

もしも新館職員の案内説明が一方的であったら あの新館はまた「伏

魔殿」に化すかも。公人としての職場放棄にもつながるかも。


ここで半世紀まえ小田富士雄先生の言われた 次の言葉をいま思い出している。
「磐井に迫るには 物証として残る岩戸山古墳と 石人、石馬の石質

と彫刻の研究が第一」と 。

はたして半世紀前のそれらの宿題に あの新館が迫り得るか。

とても そうは思えないのである。

問題の根源は 嘱託職員の館長の職務権限の未確定にあるような気もする。 

公務の失敗でも 「われら嘱託職員は正規の職員ではないので」とい

う責任回避もできそうである。

開館時間さえ守れない館長に責任を問うても「事務的な事は」と こんども逃げられそうな気がするのである。 

参考夜話342


 

お詫び

最近 お役所仕事の怠慢ぶりに触れずに心象風景を述べてきましが これから少しづつ旧に復し「磐井復権録」の充実にも心がけます。