夜話 1346 久留米藩 応変隊 その一 | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話 1346 久留米藩 応変隊  その一


幕末の攘夷運動は徳川三百余年の歴史に止めをさす原動力になったが明治維新成功後 その運動は新政府の鮮やかな政策転換により尊王開国運動になり次第に攘夷運動は時代に取り残されてぃつた


長州の奇兵隊が解散するころ久留米藩には応変隊という攘夷を声高く叫ぶ組織が出来上がった 

当時各藩でもこれに似た組織づくりが行われたが 久留米藩の重役たちに時代の流れを先き読み出来る人物がいなかった 

まず 佐幕派の智慧者の不破美作が 攘夷派に暗殺された 

二十一才の若造の小河真文がテロ集団の首謀者だったが 久留米藩はこの若造を処罰することすらできなかったばかりか 此のテロを正当化した攘夷派の事実上の指導者水野正名を参政挌で重用した

彼は三條実美らの五卿落ちにも関係して十一年間の獄中にあった根っからの攘夷派だった
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まさに久留米藩の攘夷運動の愚かさを象徴する集団が応変隊だった 彼らの多くは下級武士だった 彼らは藩主居住の篠山城から遠く離れた荘島町あたりに住んでいた 

荘島に住んでいた画家青木繁の父親も赤鞘さして肩いからした応変隊員だったという

これら隊員たちの常軌を逸したあばれぶりは斬奸、天誅といつた言葉に酔いしれていた

彼らは人間ばかりでなく石仏にも天誅の刃をふるった

高良山下の新清水の何十体という地蔵の首を跳ねたり 社池の鯉まで取って喰うたと言う 


やがて 筑後一之宮の高良山の神罰はてきめんに 時代おくれの おっちょこちょい集団の応変隊をおそった というより 久留米藩をおそったと云うが正しい 


昔から異変があるとき 「高良さん」は鳴動するという言い伝えがある 高良の神が怒ったということ