前回は第1回目の国政選挙をご紹介しましたが、その選挙の結果、開かれた第一回目の議会の様子をご紹介します。
第1回の国政選挙の結果、フタをあけてみると、総議員300人中、吏党(政府側)が129名、民党(自由民権側)が171名という結果。
議会の多数は、自由民権運動家ら率いる民党が占め、議会の議長席も民党が握ります。
【帝国衆議院議会】
しかし、政府は超然主義(内閣は政党の動向に左右されずに政治を行うとする立場)を標榜していましたから、議会の多数が政権を握ることができる現在とは感覚が違います。
当時、内閣を組織するトップの内閣総理大臣は山縣有朋でした。
雰囲気は昨今の「ねじれ国会」といったところでしょうか。(例えがあまり正確ではないかもですが)
手探りで始めた制度のスタート時点からこれですから前途は多難です。
政府側もおおよそ、民党優勢の結果は予想していたようですが、今まで政府側だけで動かすことができた法律案の可決も、発布された帝国憲法に従い国会の議決を通す必要があります。
これが、山縣有朋ら政府側の人々の頭を相当に悩まします。
議会の大多数を握る民党が「政費節減」、「民力休養」を旗印に、内閣が出す法案を度々否決します。
その中で、一番に山縣有朋らを悩ませたこと、それは予算でした。
政府予算案を議会がどこまで修正できるのかが問題となり、民党は現実性を欠く削減案を出し続けます。
大日本帝国憲法 第71条
「帝国議会ニ於テ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニイタラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ」
前年度予算があれば、仮に不測の事態が起こり予算が成立しなくとも、なんとかなるとする規定です。
しかし
第1回目の議会では、前年度予算がないため、予算が承認されないと、この規定の趣旨も意味をなさずに何もできず身動きがとれなくなってしまうのです。
それは、予算が成立しないということは、発布したばかりの帝国憲法を停止なりしなければどうにもならない状況になるということでした。
山縣有朋らには、どうしてもやり遂げなければならぬ悲願がありました。
最初の選挙、議会を成功させるということです。
日本は欧米列強に学び、長年かけて念願の憲法の発布と議会をスタートさせたのです。
これで、のっけから憲法停止・議会停止などしてしまい失敗していたのでは、欧米列強から「やっぱり欧米以外の国では、まだ民主主義は無理だ」と言われてしまうことは目に見えていました。
並々ならぬ努力をしてきただけに、それだけは避けたかったことでしょう。
最初の選挙、議会を成功させることは、文明国として日本が世界から認められるためのひとつの条件のようなものだったのです。
山縣ら政府側は解散も考えたようですが、辛抱をし民党側に理解を求め予算案の妥協点を探りました。
最終的には、民党側の一部土佐派(植木枝盛、竹内綱ら)を寝返らせることに成功し、予算案を可決します。
これには、予算に強硬姿勢だった民党側の中江兆民が身内の裏切りに憤慨し、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしり議員を辞職しました。
無事、予算は通したものの、この厳しいやりとりに山縣有朋は辟易し内閣総理大臣を辞任することを決意し、第1回目の議会を終えます。
元老会議で、後の総理大臣は松方正義が引き受けますが、当時の議会運営の難しさもあり伊藤博文、西郷従道、山田顕義らが断った後に推薦され引き受けたものでした。
民主主義のイロハもわからないはずの明治維新からわずか、20年弱で民主主義を行ったことは、かなり急速なことだったのではないでしょうか。
藩閥政府側が慎重に慎重を重ね、憲法・議会の導入を進めるのも当然で、自由民権運動を邪魔したとの評価は正確ではないでしょう。
権力に対抗し、憲法・議会の導入に取り組んだ自由民権運動家などの活動があったからこそ憲法・議会の導入があの時期に成し遂げられたことは事実ですが、第1回議会で多数を占めたからといって、超然主義をど返しして、政権を握っても政権運営はうまくいかなったのではないでしょうか。
黎明期に、手探りで一から何かを始めること、これ程苦労することはないのでしょう。
しかし、それが成功したときは、後世からの評価もひとしおなのです。