「山里に生きる―奥武蔵の片隅『ゆずの里』よりー」
~その26
 
第二十六話  奥武蔵とその周辺における廃校とその現状(寄居町・横瀬町・東秩父村編)

1 はじめに
前回は、野生鳥獣による農作物被害と野生生物の保護と管理について見てきました。その結果、水稲栽培におけるイノシシによる被害の実際から、イノシシには、稲穂が出そろった田んぼを見つけ、人が設置した構造物に対してどう対応すればよいのかといった優れた感覚(嗅覚)能力や行動能力をもっていることが分かりました。あるいは、鼻で地面を掘り起こしたり、重い物を動かしたり、あるいは1メートルもの構造物を飛び越えたりする、極めて高い身体能力を備えていることも分かりました。イノシシなど、こうした野生鳥獣は、鳥獣保護管理法などに基づき、農林業の事業活動に伴い捕獲等がやむ得ない場合に限って、狩猟免許所持者が捕獲できるようになっています。その場合でも、定められた狩猟対象や狩猟期間、猟法などが規定されています。ただ、彼らも必死になって生きようとしていることを理解し、また動物愛護管理法でも、示されているように、基本的に私たちは「動物は命あるもの」であることを改めて認識しなければなりません。
さて、再び「奥武蔵とその周辺における廃校とその現状」に戻って、今回は、先ず、寄居町、横瀬町、東秩父村における廃校とその現状について見ていきます。

Ⅱ 寄居町における廃校とその現状について


図1 寄居町、横瀬町、東秩父村の位置(埼玉県mapbinder.comより)

1.寄居町について
図1に示されているように、寄居町は深谷市、美里町、長瀞町、皆野町、小川町、東秩父村などの市町村に接する埼玉県の北西部に位置した、大里郡に属する町です。寄居町は、東武東上線やJR八高線、秩父鉄道、国道254号線、国道140号線(秩父往還)が接続する交通の要衝の地ということもあり、また東京都心からも70キロ圏内にあることから、都心などにある学校や会社に通学・通勤する人々もいます。寄居町は、外秩父や上武山地に挟まれた渓谷の地となっていて、秩父山地に発した荒川がここで関東平野に注いでいます。
歴史的には、この地域は古代から近世にかけて武蔵国榛沢郡、男衾郡に属し、一部の地域は秩父郡に属していました。1889年(明治22年)には、町村制施行に伴い、榛沢郡寄居町・藤田村・末野村をもって、寄居町となっています。1896年(明治29年)に榛沢郡が廃止され、大里郡になっています。1943年(昭和18年)には、桜沢村と秩父郡白鳥村の一部を編入しています。そして、1955年(昭和30年)2月11日に、折原村や鉢形村、男衾村、用土村と合併して、新たな寄居町が誕生しています。そして、町の中心の対岸には、かっては鉢形城があり、その意味で寄居町はその城下町であるといえます。この鉢形城は、文明8年(1476年)関東管領であった山内上杉氏の家臣長尾景春が築城し、その後、小田原の北条氏康の4男の氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなっています。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めのときは、後北条氏の重要な支城として、前田利家、上杉勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開しましたが、1ヶ月余りの籠城後、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しています。開場後は、徳川氏の関東入国に伴い、家臣の成瀬正一らが代官となり、この地を統治していました。
寄居町は、この鉢形城跡を始めとして、長瀞のすぐ下流に位置し、また1985年に環境庁などから「風布川(ふうぷがわ)・日本水(やまとみず)」が名水百選に認定されるなど、多くの観光スポットがあります。なお、人口は平成13年の38131人をピークに、令和5年には32106人になっています。
2.寄居町立小学校、中学校
寄居町には、現在、寄居小学校、桜沢小学校、用土小学校、折原小学校、鉢形小学校、男衾小学校の6校の公立小学校と城南中学校、男衾中学校、寄居中学校の3校の公立の中学校があります。
3.寄居町における小学校の廃校とその現状
この中で、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、1961年に寄居町立寄居小学校金尾分校、2009年には寄居町立寄居小学校風布分校が廃校となっています。このことは、町立寄居小学校のホームページの沿革の中にも示されています。寄居小学校の沿革の概要については、明治6年に藤田村極楽寺に藤田学校が創設され、明治22年に極楽寺に寄居学校が設立されていることになっています。寄居学校は明治25年に寄居小学校と改称され、明治43年に寄居尋常高等小学校と、昭和16年には寄居国民学校と改称されています。昭和18年には、白鳥村一部合併に伴い分教場を合併しています。分教場は、昭和26年に金尾分教場と風布分教場を分校と改称しています。戦後になって、昭和22年に寄居町立寄居小学校と改称し、昭和36年には金尾分校を統合し、平成11年に風布分校を統合して、現在に至っています。なお、この中には、寄居小学校の沿革の中には、白鳥村一部合併に伴い分教場という文言(白鳥尋常高等小学校)がありますが、ウィキペディアの寄居町や長瀞町の廃校一覧には示されていません。白鳥村については、長瀞町のホームページの町の位置・歴史・町章の覧の中で、岩田村・井戸村・下田野村・金尾村・風布村が白鳥村になり、その白鳥村は下田野・風布の一部・金尾・岩田・井戸に分かれたとの記載がありました(図2参照)。今白鳥といった地名は、「白鳥橋」以外、特に見当たりません。こうした経緯がありながらも、だからこそ、ここで「旧白鳥尋常高等小学校」について、簡単にふれておくことがよいかと思います。

❶旧白鳥尋常高等小学校とその現状について
秩父鉄道波久礼駅を降り、寄居大橋を渡ると直ぐのところに旧金尾分校があります。旧金尾分校があった、この金尾地区から長瀞町を経て秩父市大野原に至る県道82号線(荒川を挟んだ反対側には国道140号線があります)を秩父方面に5キロメートルほど進んで行くとその県道沿いに旧白鳥尋常高等小学校跡地がありました。跡地には、「白鳥尋常高等小学校」の名前と「慕情の里」の詩文の入った記念碑がありました。それがなければ、ここに学校があったことなど、ほとんど分からなかったのではないかと思います。

 
図2 長瀞町の歴史           写真1 旧白鳥尋常高等小学校跡地

 
写真2 旧白鳥尋常高等小学校・慕情の里の碑   写真3 慕情の里碑
                      
そして、2つの碑(写真2、写真3)の後ろには、この跡地を整備するにあたり寄付した卒業生の名前が刻まれた碑がありました。この3つの碑がある以外の土地は、個人が所有している土地となっています。見える建物(写真1など)も個人の所有です。さて、写真3の「慕情の里」は、熊谷市にある八木橋百貨店(創業当時の名前は八木橋呉服店)の創業者で八木橋本次郎氏(昭和13年没)の詩によるものであるといわれています。読むと『今もこの地に当たりて ふるさとを守る者 異郷在りて 故山を慕うる人々 永久に去りて 此処に骨を埋むる人達 その数遙かに極め難きも 過ぎ来し いにしえに思いを馳すれば 人々の面影こえなく学舎に集う されど其処には我らの学びたる学校に無く 技を練りし校庭偲ぶよくなし 思えば年少の日を此処に学びて幾星霜 ・・・・・・・・・ 昭和48年4月 八木橋本次郎』となっていて、これからも白鳥尋常高等小学校の卒業生の母校に対する想いが強く伝わってきます。同じような碑は、次の金尾分校や風布分校跡地にも残されていました。いずれの碑も学校が廃校となったときの校名ではなく、「白鳥尋常高等小学校跡」「白鳥尋常高等小学校金尾分教場跡」「白鳥尋常高等小学校風布分教場」といった碑名になっていて、それからも「白鳥村」や「白鳥」といった言葉に対する人々の熱い想いが伝わってきます。
➋旧寄居小学校金尾分校とその現状について
さて、旧金尾分校は、既述の通り、秩父鉄道波久礼駅を降り、寄居大橋を渡ると直ぐのところに旧金尾分校跡地(写真4参照)があります。写真4の碑には、「白鳥尋常高等小学校金尾分教場跡」と刻まれていますが、ここが旧金尾分校跡地であることはいうまでもありません。跡地には、今、運動場が残り、そこに倉庫のような建物が建っています。入り口には先の旧白鳥尋常高等小学校と同じ「慕情の里」の碑が建っています。なお、金尾分校のすぐ横には、金尾白髭神社(写真5)があります。分校倉庫の後ろの建物は、金尾白髭神社の社務所となっています。

 
写真4 白鳥尋常高等小学校金尾分教場跡碑  写真5 金尾白髭神社
 

➌旧寄居小学校風布分校とその現状について
旧寄居小学校風布分校は、寄居大橋を渡り、突き当りの道を左方向(右方向は県道82号線でそのまま進むと先の旧白鳥尋常高等小学校跡地方面に行きます)に進んでいきます。旧風布分校に行くには、風布川沿いをさらに山の中に入っていきます。すると少し開けた場所に出ますが、そこに旧寄居町立風布分校(写真8、9)があります。写真8の風布分校の校舎は、本来はそこより少し上がったところにありました(写真6、7)。もともとあったところには、白鳥尋常高等小学校風布分教場史跡保存碑(写真6)と白鳥尋常高等小学校と金尾分教場に設置されていたと同じ「慕情の里」(写真6)の碑が建っていました。その東側はグランド(写真7)となっています。下に校舎が新築・移転し、廃校に至るまで、体育の授業などは、ここ(写真7)で行われていたのではないかと思います。

 
写真6 白鳥尋常高等小学校風布分教場  写真7 旧風布分校グランド史跡保存碑

 
写真8 旧寄居小学校風布分校     写真9 寄居町生涯学舎やまとぴあ風布

今、旧風布分校は(写真8、写真9)は、山間部という立地条件を活かし、教育文化の振興・コミュニティづくり、生涯学習の推進を図ることを目的として、生涯学舎として活用されています。そこでは、水彩画、陶芸などのサークル活動の利用やそば打ち体験や地元自治会の利用、その他各団体の研修の場として、活用されています。部屋は、20人程度収容できる会議室、学習室、体験学習室があり、また30人から100人程度の会議や講演会が行える場として利用することができます。

 
写真10 観光案内所  写真11 「ここは風布のどまんなかです」という説明版(看板)
 

写真8の風布分校の前の広場は駐車場などとして利用されており、また、そこには、日本の里観光案内所やトイレ、休憩場などの建物が建てられています(写真10参照)。また、横には「ここは風布のどまん中です」「寄居町日本の里(やまとのさと)入口」といった説明版・看板が設置されています(写真11など参照)。
Ⅲ 横瀬町における廃校とその現状について
1.秩父郡横瀬町について
横瀬町は武甲山の北側、秩父盆地の南東端に位置し、武甲山(図3、写真12参照)から産出される石灰岩鉱山を主な産業とする町です。町の大半は深い山地であり、町の北西を流れる横瀬川周辺に平地があり、そこに町の役場などがあり、中心地となっています。町役場から秩父市街地までは、約1.5㎞と近く、町には高等学校や病院、大きな店舗もないことから、町民生活は秩父市に大きく依存しています。歴史的には、1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、秩父市横瀬村が成立しています。1955年(昭和30年)に横瀬村と芦ヶ久保村が合併して、改めて横瀬村となり、1984年(昭和59年)には町制施行により横瀬町となっています。交通的には、西武秩父線や国道299号線がすぐ近くを走っていて、飯能市や都心方面にも、容易に行くことができます。そのため、この299号線沿いにある「道の駅果樹公園あしがくぼ」(図3参照)は、観光地秩父の玄関口でもあり、またすぐ前を横瀬川の清流が流れ、豊かな自然に囲まれた地であることから、県内でも1年を通して利用者の多い有数の道の駅となっています。とくに目につくのは、オートバイクに乗った人たちです。町の2024年1月1日の推計人口は7597人です。

1.横瀬町の公立の学校
現在、町立の学校は横瀬小学校と横瀬中学校の小中各1校となっています。町立横瀬小学校は、明治5年に横瀬学校が開設(法長寺を校舎にあてる)され、明治25年に横瀬尋常小学校に改称されました。平成21年4月1日、芦ヶ久保小学校と統合し、現在に至っています。校歌の中には、先の「武甲山」「横瀬川」といった町民にとって最も馴染みのある山や川の名前が盛り込まれています。

 
写真12 雪の武甲山         図3 横瀬町地図(www.mapbinder.comより)
 

2.旧芦ヶ久保小学校とその現状について
旧芦ヶ久保小学校は、平成21年に閉校となっています。旧芦ヶ久保小学校は、1889年(明治22年)に竜源寺を仮校舎として創立され、同年8月に芦ヶ久保尋常小学校となっています。1903年(明治36年)に現在の位置(図3参照、「道の駅果樹公園あしがくぼ」の横瀬川と国道299号線を挟んだ直ぐ北側の高台)に校舎を新築移転しています(写真13、写真14参照)。1961年(昭和36年)に体育館完成(写真15)し、1967年(昭和42年)には3階建て校舎(写真14)が完成していますが、残念ながら、平成20年には廃校となっています。旧芦ヶ久保小学校は、写真などからも分かるように、山間の豊かの自然の中にあった学校で、現在「あしがくぼ笑楽校」とも呼ばれ、親しまれています。この「あしがくぼ笑楽校」という名前には、「子供から大人まで、笑って楽しく昔の校舎を活用したい」といった願いが込められているとのことです。このように旧小学校は、映画やドラマのロケ地として、またアニメやコスプレなどの撮影場所として利用されています。利用したい等の場合は、横瀬町役場まち経営課(電話0494-25-1112)に問い合わせを行うとよいかと思います。

 
写真13 旧芦ヶ久保小学校        写真14 旧芦ヶ久保小学校

 
写真15 鉄筋3階建ての校舎       写真 16 体育館への(入口・昇降口)
 

3.旧芦ヶ久保小学校入山分校とその現状について
旧入山分校は、横瀬町入山地区にありました。現在、跡地には門柱(写真17)、入山分校跡の碑(写真18)などが残るだけとなっています。記念碑の裏側には「入山分校に憶う」という人々の想いが刻まれています。それによれば、「(分校は)、江戸街道とは言え上り下がりの曲がり道を本校を隔てること8千米に及ぶ辺地に在る入り山地域の住民は分教場の設置を願望し、・・・、敷地の造成提供労力奉仕等多大な協力によって、・・・、昭和27年4月に複式学級の小規模学校として旧芦ヶ久保小学校入山分校として開校を見た。・・・、爾来15年の間に百名に及ばんとする学童が巣立った。然し乍ら時代の推移と児童数の減少により止なく昭和41年限りで廃校され、入山公会堂としてその面影を留めていたが、此の度国道改良に伴う掘削工事により新時代の交通用地と化し敷地建物総てその姿を残さず壊滅する。・・・、昭和54年3月」となっています。こうしたことからも、戦争直後の人々の子どもの教育に対する想いやそのための努力、協力を惜しまない姿が伝わってきます。そして、今、先の壊滅という表現にもあるように、正丸トンネルの開削・開通に伴って、入山分校の廃校前の姿はほとんど留めていません。今まで、人々は飯能から秩父方面に行くために、旧道の正丸峠を越えていかなければなりませんでした。そのことからも正丸トンネル(1918m)の開通による恩恵は、計り知れないものがあるかと思います。ただ、それによって廃校となった学校もあります。蛇足ながら、写真20の右方面は県道53号線青梅秩父線となっています。そちらに進むと旧名栗村(飯能市)や正丸峠に向かっていくことになります。なお、この旧入山分校跡から本校があった旧芦ヶ久保小学校までの距離は、車で測ると概ね4㎞でした。

 
写真17 旧入山分校門柱          写真18 入山分校跡碑

 
写真19 旧入山分校跡            写真20 正丸トンネル
 

Ⅳ 東秩父村における廃校とその現状について
1.秩父郡東秩父村
図1からも分かるように、秩父郡東秩父村(図4参照)は、秩父市や小川町、寄居町、皆野町、ときがわ町の1市4町に接した埼玉県で唯一の村です。東秩父村は、秩父盆地から山を隔てた東側にあることから名付けられました。村の中を県道11号線や294号線が走り、経済、文化、医療といった面では、隣の小川町などとの結びつきが強い地域といってもよいでしょう。ただ、小川町や寄居町の中をJR八高線や東武東上線、国道254号線などが通っていますので、それを使えば、川越や池袋などにも、比較的容易に行くことができます。図4からも分かるように、村の形は三角形の形をしていて、総面積は37.06㎢。となっています。そのうちの約8割は山林となっていて、自然豊かな処となっています。令和5年12月1日現在の総人口は、2484人です。村を有名なものにしているものの一つは、「手漉き和紙」です。ここでいう手漉き和紙は、「細川紙」のことです。細川紙の製作技術は、昭和53年に国の重要文化財に指定され、平成26年にユネスコの無形文化遺産代表一覧表にも記載されました。細川紙は、楮を原料として、江戸中期に紀州高野山の細川村で漉かれていた細川奉書の技術が、江戸に近いこの小川町や東秩父村で伝承されてきたものです。細川紙は、末晒しの純楮紙ならでは強靭さと素朴ながらつややかな光沢をもち、地合いしまり、紙面が毛羽たちにくく、剛直で雅味に富んだ味わいがあるといわれています。道の駅にも、「道の駅和紙の里ひがしちちぶ」という名前が付けられています。写真21は「東秩父村和紙の里研修会館」です。写真22は「日本庭園のある紙漉き家屋」です。

  
図4 東秩父村          写真21 東秩父村和紙の里研修会館


写真22 日本庭園のある紙漉き家屋
 

写真21の和紙の里研修会館には、本格的な日本家屋の大小の和室があり、研修や集会で幅広く利用され、団体客の食事会場としても活用されています。写真22の紙漉き家屋は、江戸時代に建てられた紙漉き家屋を移築、復原したもので、土間に入り見学することができます。この家屋は、細川紙・手漉き和紙関係用具収集の一環として、村が譲り受けたもので、県指定の有形民俗文化財として保存されています。なお、この施設「道の駅和紙の里ひがしちちぶ」内には、「ふるさと文化伝習館」「フードコート」「JA埼玉中央東秩父農産物直売所」「特産品直売所」「トータルサポートセンター」などがあります。

2.東秩父村における学校の歴史
東秩父村には、現在村立槻川小学校(秩父郡東秩父村大字御堂364番地1)と村立東秩父中学校(秩父郡東秩父村大字奥沢150番地)の小・中学校があります。槻川小学校は先の「道の駅和紙の里ひがしちちぶ」の近くの直ぐ東側にあり、東秩父中学校は村役場近くの直ぐ東側にあります(図4参照)。なお、東秩父村は1889年(明治22年)に安戸村・御堂村・奥沢村が合併して大河原村に、大内沢村・坂本村・皆谷村・白石村が合併して槻川村となり、1956年(昭和31年)に大河原村と槻川村が合併して東秩父村となっています。
東秩父村では、2013年にそれまであった東西の小学校を廃止し、槻川小学校の一つに統一されました。それに至るまでの旧東小学校と旧西小学校の移り変わりについて見ておきましょう。旧西小学校は、1873年(明治6年)に皆谷学校として開校しています。そして、1878年(明治11年)に大内沢分教場と白石分教場が開設されました。1882年(明治15年)に旧皆谷学校は旧三益小学校に改称されました。1892年(明治25年)に旧三益小学校は旧槻川小学校(注1)と改称され、その旧槻川小学校は1941年(昭和16年)に国民学校となっています。そして、1967年(昭和42年)に旧槻川小学校は旧西小学校となっています。他方、1874年(明治7年)に旧槻川小学校(注2)が開校しています。1889年(明治22年)に旧槻川小学校は旧大河原小学校へ改称されています。そして、1941年(昭和16年)に槻川と同じく国民学校となり、さらに1967年(昭和42年)に旧槻川小学校は旧東小学校となり、現在は、先の通り、この旧東小学校と旧西小学校は2013年(平成25年)に統合され、校名は槻川小学校(注3)となっています。以上この移り変わりを仮に東西の2つの地域に分けて、整理してみると表1のようになり、少し分かりやすいかと思います。

表1 東秩父村における学校の移り変わり


東秩父村立東小学校と西小学校は、2013年4月1日に東西の小学校を廃止し、統合・合併して、新たに槻川小学校となりました。東秩父村は、村民から新しい名前を募集したところ、その中から、多かった「槻川」「つきの木」「東秩父」「和紙の里」の4つに絞り、その上で、歴史性や地域性、文化性などの視点から検討したところ、「槻川小学校(注3)」が選定されました。選定理由をもう一度詳しく説明しておくと、「槻川」は村の中央を流れる川であり、多くの村民が親しんでいること、両小学校の歴史の中で、それぞれ一時この名前を使われていたこと、アンケートでも多くの人が提案していたことなどがありました。確かに、表1からも分かるように、今回の選定も含めて、「槻川」という名前は、3回も使われています。昔も今も、多くの村民から親しまれ、愛されていたことが分かります。
それでは、次に廃校・休校となった旧西小学校と旧西小学校大内沢分校、旧西小学校白石分校とその原状について順に見ていきましょう。

❶ 旧東秩父村立西小学校とその現状について
 旧西小学校(東秩父村大字坂本1313)は、県道11号線沿いの坂本にありました。表1の通り、1873年に皆谷学校として開校し、2013年4月1日に閉校して、現在は解体後、特別養護老人ホームとして活用されています。解体は2017年だったと思います。訪ねた時、たまたま重機が入って、工事が始まっていました。写真23と写真24は、解体中の旧西小学校です。写真24の左建物は、体育館ですが、こちらは解体されず現存しています。先の特別養護老人ホームは、社会福祉法人「太陽の会」運営で、名称は「特別養護老人ホームつきがわ」となっています。

 
写真23 解体中の旧西小学校       写真24 解体中の旧西小学校

➋ 旧西小学校大内沢分校とその現状について
旧大内沢分校は、県道294号線沿い(図4参照)の大内沢地区にあります。その県道と分校との間に大内沢川が流れています。分校は1978年(明治11年)に分教場として開設され、写真24と写真25の校舎は、1984年(昭和59年)に竣工しています(表1など参照)。この校舎は、自然光を取り入れるための工夫がなされ、それにより明るい学習環境を作り出されています。この旧大内沢

 
写真25 旧西小学校大内沢分校      写真26 旧西小学校大内沢分校

分校は、2011年(平成23年)に廃校となっていますが、現在は、東秩父村文化財保存施設「ふるさと館」となり、空き教室を使って、各種講座の開催などの場として活用されています。

➌旧西小学校白石分校とその現状について
旧白石分校は、県道11号線沿いの東秩父村白石にありました。直ぐ近くを槻川が流れ、自然豊かな地にありました(写真27、写真28)参照)。ところで、先の槻川は、白石地区の堂平山付近に源を発する川です。「新編武蔵」によると源流点に欅(けやきと読み、槻とも言われています)の大木があったので、その名前が付けられたとされています。東秩父村安戸地区から小川町に入ると兜川と合流し、小川盆地を抜け、嵐山渓谷の景勝地を通ると、嵐山町鎌形で都幾川と合流します。槻川は小川町の水道の原水として利用され、古くから農業用水として利用されてきました。旧白石分校の歴史を辿れば、大内沢分校と同じ1978年(明治11年)に分教場として開設されています。1985年(昭和60年)に新校舎が竣工しましたが、2002年(平成14年)に休校となっています。写真からも分るように、校舎は平屋建てで、旧大内沢分校と同様、自然光を取り入れるための工夫がなされています。休校後、旧白石分校は、「ふるさと文化伝承館分館」として活用されています。本館は「道の駅和紙の里ひがしちちぶ東秩父村和紙の里」の中にあります。さて、ここ分館では、和太鼓の演奏グループ「鬼太鼓座(おんでこざ)」のメンバーは、この分館(合宿所)で共同生活をしながら、日々稽古に打ち込んでいます。「鬼太鼓座(おんでこざ)」は2020年に創立50周年を迎える日本を代表する和太鼓集団であるといわれています。世界各地での講演活動に加え、ラクビーワールドカップカップ開会式オープニングセレモニーや令和天皇陛下御即位をお祝いする国民の祭典などの際にも演奏されています。

 
写真27 旧白石分校              写真28 旧白石分校

 
写真29 春の日の旧分校の様子      写真30 和太鼓による演奏場面

写真29、写真30は、2017年頃の春に分校を訪れたとき、偶然撮影したものです。そのとき和太鼓による演奏がなされ、それに見とれる人々がいました。演奏は、恐らく上述の和太鼓の演奏グループ「鬼太鼓座(おんでこざ)」のメンバーによるものだったかと思いますが、確認していません。

Ⅴ まとめ
今回は、寄居町、横瀬町、東秩父村における廃校とその現状について見てきました。寄居町においては、風布分校が教育文化の振興・コミュニティづくり、生涯学習の推進を図ることを目的として、生涯学舎として活用されていることが分かりました。横瀬町の木造の旧芦ヶ久保小学校は、「あしがくぼ笑楽校」として活用されています。この「あしがくぼ笑楽校」という名前は、「子供から大人まで、笑って楽しく、昔の校舎を活用したい」という願いのもと付けられています。東秩父村の旧西小学校は、今民間の施設と利用されていますが、旧大内沢分校は文化財保存施設「ふるさと館」として、また白石分校は、「ふるさと文化伝承館分館」として活用されています。このように、活用のされ方などは、それぞれの町村や地域・地域の特色が出ていました。これ以外で廃校となった学校は、校舎建物などは現存せず、記念碑や門柱等が残っているだけとなっていました。それにしても、寄居町においては、廃校となった学校に設置された記念碑や「慕情の里」などの碑文を見ると「白鳥村」や「白鳥」といった名前やふるさとや卒業した学校への人々の熱い想いが強く伝わってきました。また、東秩父村においては「槻川」という名前が3回も使われていて、村の人々の「槻川」への想いが伝わってきました。私たちは、自分の郷土とは何なのか、郷土への想いとは何なのか、改めて考えてみることが必要かと思います。

【資料】
①寄居町「鉢形城公園案内」
②寄居町「寄居町生涯学舎(やまとぴあ風布)」
③長瀞町「町の位置・歴史・町章(町のこと)」
④長瀞町教育員会「令和5年度長瀞町教育要覧」
⑤ひがしちちぶ「東秩父村和紙の里施設案内」
⑥横瀬町地図(www.mapbinder.com)
⑦埼玉県地図(mapbinder.com)
⑧横瀬町「横瀬町歴史略年表」
⑨横瀬小学校「学校紹介151年目新たな歴史を歩み始めた横瀬小学校」
⑩横瀬町観光協会「あしがくぼ笑楽校(旧芦ヶ久保小学校)」
⑪小川町「くらしの情報 細川紙」
⑫フリー百科事典(ウィキベディア)「横瀬町」
⑬フリー百科事典(ウィキベディア)「長瀞町」
⑭フリー百科事典(ウィキベディア)「槻川」
⑮Weblio辞書「東秩父村(歴史)」
⑯フリー百科事典(ウィキベディア)「東秩父村」
⑰フリー百科事典(ウィキベディア)「鬼太鼓座」
⑱ログかずくん!「埼玉県大里郡寄居町風布館第二観光案内所行ってきました!」
⑲ファイナルアクセス「寄居町立寄居小学校風布分校閉校」
⑳荒川上流Giro Giro日記「白鳥尋常高等小学校ポタ3」
㉑ ファイナルアクセス「東秩父村西小学校白石分校休校」
㉒ 鬼太鼓座(おんでこざ)「鬼太鼓座の太鼓をまなぶ2日間―東秩父村―」
㉓ 東秩父村「村での出来事を紹介します!!」
㉔ ファイナルアクセス「横瀬村立芦ヶ久保小学校入山分校閉校」
㉕ ファイナルアクセス「東秩父村立西小学校閉校」
㉖ 日本工業経済新聞社「新校名は槻川小/東西小学校統合」
㉗ HARIKYUS CAMERA CLUB(BLOG)「横瀬町立芦ヶ久保小学校入山分校」
㉘ 憧憬の刻「芦ヶ久保小入山分校(廃校)」
㉙ 特別養護老人ホーム「つきがわ」