「山里に生きる―奥武蔵の片隅『ゆずの里』よりー」
~その24
  

第二十四話 奥武蔵とその周辺における廃校とその現状について(秩父郡小鹿野町・皆野町編) 

1 はじめに
 廃校巡りは、退職後に始めたもので、最初は近くの飯能市やときがわ町といった地域における廃校とその現状について、見て、廻っていました。飯能市には、まだ立派な校舎が現存している学校がありました。一方で、周りは竹で覆われ、そこにコンクリートの校門が残っていなければ、学校があったことすら分からない廃校跡地もありました。
 本シリーズでは、奥武蔵や秩父市、横瀬町、小鹿野町、東京都檜原村・奥多摩町、群馬県上野村、下仁田町などにおける廃校とその現状について見ています。前回の第二十三話では、埼玉県秩父市における廃校とその現状についてみてきました。今回は、埼玉県秩父郡小鹿野町と皆野町の2町における廃校とその現状について見ていきます。

Ⅱ 小鹿野町における閉校(廃校と)とその現状

 

    図1 秩父郡5町村の位置          図2 小鹿野町

             (埼玉県mapbinder.com)

1.秩父郡
 フリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」によれば、秩父郡とは「埼玉県(武蔵の国)の郡の一つである。2023年8月1日現在、推計で人口は35564人、面積351.8㎢、人口密度101人/㎢である。この中に、横瀬町(よこぜまち)、皆野町(みなのまち)、長瀞町(ながとろまち)、小鹿野町(おがのまち)、東秩父村(ひがしちちぶむら)の5町村が含まれている」としています。この秩父郡と秩父市とを合わせて秩父地方とも呼ばれています(図1参照)。

2.小鹿野町
①小鹿野町の概要
 小鹿野町は埼玉県の西部(図1参照)に位置し、市街地は町の南東部(図2参照)に多く形成されています。小鹿野町(図2参照)は、教育、交通、産業の振興などの近代化が早くから進められ、西秩父地域の中心地として発展してきました。また、前のブログでも報告した通り、町の西側には日本百名山の両神山を含む秩父多摩甲斐国立公園や日本の滝百選に選ばれた丸神の滝(写真1)、名峰二子山などがある自然豊かな地域でもあります(図2参照)。小鹿野町の歴史は、明治2年に、上小鹿野村が小鹿野町と改称され、明治22年にはこの小鹿野町と下小鹿野村、伊豆沢村が合併し、その後も長若村、三田川村、倉尾村などとの合併を繰り返してきて、平成17年(2005年)には両神村と合併して新たな小鹿野町が成立しています。小鹿野町は、明治には町制が施行されているように、町としては本県の中では、川越町に次ぐ古さをもつといわれています。昭和30年の人口は旧小鹿野町と両神村合わせて19885人であったものが、令和2年の小鹿野町(合併後)の人口は10928人となっています。

②小鹿野町歌舞伎
 自然に恵まれた小鹿野町について、忘れてはならないものに小鹿野歌舞伎(写真2)があります。この小鹿野歌舞伎について、小鹿野町は「歌舞伎の創始はおよそ220年前、初代坂東彦五郎が江戸歌舞伎をこの地に伝えたのが始まりだとされています。常設の舞台での上演はもちろん、祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出して演じる「屋台歌舞伎」が大きな特徴です。役者・義大夫・裏方にいたるまで、スタッフのすべてが地元衆。町内の祭りに奉納される年間6回の定期上演のほか、日本各地で行われる訪問公演は、常に大きな喝采をあび、「歌舞伎のまちおがの」の名を全国に響かせている」と紹介しています。このように江戸時代に始められた小鹿野歌舞伎も、明治、大正期には最盛期を迎えていましたが、昭和の30年代にもなるとテレビなどの影響を受けて、衰退の時期を迎えてしまいました。その後、民族文化財保護運動が高まり、昭和48年に、旧大和座系の役者と町内各地で地芝居を続けてきた人たちが合同して「小鹿野歌舞伎保存会」が設立され、昭和50年には埼玉県文化財の指定を受けています。今、町内には常設の舞台が5カ所あり、昭和46年より始まった郷土芸能祭をはじめとして、歌舞伎が定期的に上演されています。

 
写真1 丸神の滝      写真2 小鹿野歌舞伎(小鹿野町観光協会資料より)

③小鹿野町の学校の移り変わり 
 「小鹿野町の小学校再編整備(統合)方針及び実施計画」によれば、①小鹿野小学校、長若小学校、三田川小学校、両神小学校を1校に統合します。②統合の時期や方法は、令和7年4月の4校一斉統合を目指します。③統合に向けて調整・協議する事項が発生した場合には、統合準備委員会(仮称)を組織・設置して検討していきます、という小鹿野町における今後の計画の基本方針が昨年(令和4年)の8月に示されました。計画通り進めば、今ある4校の小学校は令和7年4月には1校になります。こうした中、小鹿野町(旧両神村も含めて)では、既にいくつかの小学校・分校・分教場が廃校・閉校となっています。具体的には、1967年に、両神小学校滝前分校が廃校となり、以降、1971年には両神小学校との統合のため竹平小学校が、同じく1971年には両神小学校との統合のため両神小学校大谷分校が、1973年には両神小学校竹平分教場と出原分教場、煤川分教場がそれぞれ廃校となっています。そして、1974年には小鹿野町第1小学校廃校と第2小学校、第3小学校が三田川小学校への統合のため廃校となっています。さらに、2004年には倉尾小学校が小鹿野小学校との統合により廃校となっています。

3. 小鹿野町における廃校とその現状について
➊小鹿野町の小森地区と薄地区
 ここでは、小鹿野町で廃校(閉校)となった小学校・分校・分教場とその現状について見ていきたいと思います。旧両神村は大別すると北部の薄と南部の小森の2つの地区に分けることができます。それぞれの地区に2つの河川と2つの県道が通っています。南部の小森地区には小森川と県道367号線が通り、北部の薄地区には薄川と県道279号線が通っています。この中で、県道367号線は全体的に幅が狭い感じがします。しかも、採石場出入りのダンプカーが頻繁に走っており、気を付けて通行することが必要かと思います。小森地区と薄地区を結ぶ道路はなく、薄地区から小森地区に行くためには、一度市街地方面に戻ってから、別の県道を走っていくことになります。南部の小森地区に旧滝前分校と旧大谷分校、旧煤川分教場があり、北部の薄地区に旧出原分教場と旧竹平分校があります。先ずは旧滝前分校から見ていきましょう。

➋旧両神小学校滝前分校とその現状について

 
写真3 旧滝前分校                写真4 旧滝前分校

 
写真5 滝前分校碑              写真6 丸神の滝入口

 
写真7 滝前分校炊事場           写真8 滝前分校前の渓流

 小鹿野市街地方面から小森川沿いの県道367号線を奥に進んで行くと、途中、川を挟んだ左側のすぐのところに旧両神小学校滝前分校(写真3、写真4、小鹿野町両神小森)があります。小森川に架けられた橋(通称、学校橋)を渡ると目の前に分校があります。滝前分校は、1992年(大正11年)に両神小学校滝前分教室として開設され、1947年(昭和22年)に滝前分校となっています。分校は周りを木々で囲まれているため、全体的に薄暗い感じがします。ただ、写真4からも分かるように秋紅葉の時期は美しく、分校校舎の建物と後述の丸神の滝とを合わせて、一つの観光スポットになっています。学校は平屋建ての木造校舎ですが、その建物は、昭和57年に建て替えられています。両神中学校の建物を移築、再利用したものです。広場には炊事場があり、分校は町営キャンプ場として使われていました。ただ、今年秋に訪れた時には、炊事場には「この水飲めません!」という貼り紙が貼ってありました。滝前分校は、人口減少に伴って、1967年(昭和42年)3月に本校に統合され、廃校となっています。廃校後、児童は、スクールバスで本校に通うようになりました。なお、ここから少し奥に進んで行くと日本の滝百選に選ばれた丸神の滝(写真1)があります。滝へ行くためには、写真6の丸神の滝入口から少し坂道を上っていくことが必要ですが、廃校巡りに合わせて立ち寄ってみるのもよいでしょう。なお、旧分校敷地内には、縦2.5m、横1m、厚さ0.15mの開校記念碑が建立されています。そこには、次のような記述があり、煤川分教場の名前も出てきます。掲載しておきましょう。『両神村ハ山間ノ部落ナレバ地勢上小学校教育ノ如キモ本校外四個所二分教場ヲ設ケ児童ヲ教育シツツアリ特二煤川分教場ノ如キハ村ノ西端二位シ通学区域約二里二亘リ羊腸ノ小経(山道のように曲がりくねった道の意)ヲ辿るナレバ児童ノ困難一方ナラズ従テ雨ノ日雪ノ時ハ出席ハ僅少ナルノ状態二アリキ偶関東木材會社ノ当地二事業ヲ開始スルヤ従業員ノ子弟入学スルモノ多ク同分教場ハ狭隘ニシテ到底之レヲ収容スル二余地ナシ二至レリ依テ大正十年十月時ノ本村要路者(重要な位置にある人の意)並二同分教場区域内ノ父兄及同會社両神出材部ト相図リ児童通学ノ便ヲモ考慮シ其ノ通学部落ノ負担ヲ以テ別二字滝前二教室ヲ建設スルコト決シ大正十年十一月滝前区域内ノ父兄ハ同会社両神出材部ト合同シ委員五名ヲ選擧シ之レガ事業二着手ス或ハ設計二或ハ寄附ノ募集二将夕校地野ノ地並シ及校舎建設二昼夜営々トシテ奮励努力シ僅々八箇月経費五千五百七十一円人夫一千六十七人二シテ校地三百坪校舎四十一坪二合五勺ヲ竣成シ十一年十一月五日郡長警察署長ヲ始メトシ村要路ノ方々参列シ会スルモノ無慮五百名盛大ナル開校式ヲ挙行セリ前ハ小森川ノ清流二臨ミ後ハ蒼然タル森林ヲ負イ通気採光二注意シタレバ山間稀二見ルノ校舎ナリ此ノ擧ヲ永ク記念センガ為メ有志相図リ之ヲ石二録ス 大正十三年十一月五日 両神尋常小学校長 高田朝吉記』。以上、山中正彦氏「小森森林軌道―マルキョウが刻んだ生活(くらし)の轍―」P84より引用。なお、実際の碑は、当然たてがきであり、字体もここでは新字体で記述したところもあります。確かなところは先の山中正彦氏の書物をご覧ください。いずれにしても、この記述からも、当時、旧両神村には、本校(両神尋常小学校)以外に4つの分教場(分校)があったことが分かります。

➌旧煤川分教場とその現状について
次に煤川分教場とその現状について見ていきましょう。
 
図3 旧煤川分教場の位置         図4 旧倉尾小学校の位置

 旧煤川分教場(分校)に行くためには、煤川地区手前で県道367号線を山側に右折し、曲がりくねった急坂を上って行くことになります(図3参照)。2㎞くらい進むと、集落の頂上付近の高台に旧分教場(分校)があります(写真9)。直ぐ隣には地区の神社があり、分かりやすいかと思います。今、煤川分教場は第13区煤川集会所として、地区の人々により利用されています。集会所の南東隅に分校跡の記念碑(写真10)が設置されており、これがなければ、ここが学校跡だったのか分からないところがあります。煤川分教場は先の滝前分校の記念碑にも示されているように、滝前分校よりも早く開校しています。なお、煤川は先の分教場がある地域の上煤川と県道・小森川沿いにある下煤川の2つの地区・集落に分かれています。

 
写真9 旧煤川分教場(第13区煤川集会所 )   写真10 旧煤川分校碑

➍旧両神小学校大谷分校とその現状について(小鹿野町両神小森3280)

 
写真11 旧大谷分校                写真12 校舎隣にある集会所

 
写真13 大谷分校玄関            写真14 大谷分校跡碑
(りょうかみ山の家とあります)

 
写真15 献立表            写真16 旧大谷分校(裏の道路側より望む)

 旧大谷分校(おおがいぶんこう、写真11など、小鹿野町両神小森3280)は、旧滝前分校と同様に南部の小森地区にあります。写真16からも分かるように、校舎は道路側から見ると2階建てのように見え、正面から見ると1階建てのようにも見えます。全体的には、木造の2階建てとなっています。これは校舎が斜面に造られたことによります。運動場は狭く、それでも、子どもたちのために、学校敷地を少しでも拡げるために斜面に石垣を積んでいった人々の努力の跡を写真からも読みとることができます。大谷分校は1947年(昭和22年)に誕生し、1968年には大谷文庫を開設するなど歴史をつないできましたが、残念ながら1971年3月に人口減少などに伴い、廃校となっています。廃校後、大谷分校は写真13にも示されているように夏場に、「りょうかみ山の家」として、足立区からやってきた子どもたちの林間学校の場として利用されています。写真15は、そのときの献立表です。今、敷地内にある校舎隣の建物(写真12参照)は、表示にも示されているように、両神第十二区集会所として、地区住民により、利用されています。

❺旧竹平小学校とその現状について(小鹿野町両神薄6264-2)
薄地区には、旧竹平分校と旧出原分教場がありました。まずは、旧竹平分校から、見ていきましょう。

 
写真17 旧竹平分校の跡         写真18 竹平分校跡碑

 旧両神小学校竹平分校の住所は、小鹿野町両神薄6264-2となっています。同校は1894年(明治27年)に両神小学校の分教場として開校し、その後分教場から分校となり、1973年3月31日に閉校となり、79年の歴史に幕を下ろすことになりました。閉校当時使用されていた木造の平屋建て校舎は、一時工場として利用されていましたが、その後解体されています。建物は写真13の反対側にありました。現在敷地には、上薄生活改善センターの建物(写真17)が築かれ、また地域の避難所として利用されています。写真18は同校跡地であることを示す碑です。

❻旧両神小学校出原分校とその現状について


 
写真19 旧出原分校碑           写真20 出原集落


写真21 旧出原分校と両神山                  

 小鹿野市街地から県道279号線を両神山方面に進んで行くと小鹿野町ダリア園があります。このダリア園を過ぎ、しばらくすると県道は急に細くなります。そのまま進んで行くと出原集落(写真20)に旧出原分校(写真21)がありました。住所は小鹿野町両神薄9233となっています。分校は集落を見下ろす高台にあります。そのため、下からはよく見えません。写真21からも分かるようにグランドには綺麗に砂利が敷かれ、アンテナが立っています。そして、建物奥西方には、両神山を望むことができ、まさに奥深い山里に学校があったことが分かります。写真19は、出原分校の記念碑です。記念碑は建物玄関の右横に立っています。分校は、1973年に廃校となっていますが、現在は、地区の集会場として活用されています。

❼旧倉尾小学校とその現状について
 写真22(ダム堤から撮る)は、合角(かっかく)ダム(西秩父桃湖)です。ダムは、洪水調節や利水などを目的とした県営の多目的ダムですが、そのダム建設によって、「そこには、5000年以上前の縄文時代から人々が住み着き、厳しい自然環境を克服して生活文化を創造し、集落を維持してきました。たとえば、日尾、合角、塚越の各地域からは、縄文時代の遺物が出土し、室町時代から戦後時代にかけての、現在の住民の先祖を想像させる古文書や歴史的遺産も確認されており、長い間地域の歴史や文化が引き継がれてきたことを物語っています。建設によって、37haの土地が水底に没し、かってあった集落やこれまで肩を寄せ合うようにひっそり暮らしてきた人々の生活の場は永遠にその姿を消したことになります」(山口美智子『村とダム 水没する秩父の暮らし』、すずさわ書店、1997年)よりとあり、そうしたことを一方で忘れてはなるまいと思います。この合角ダムは、荒川水系吉田川に建設された重力式コンクリートダムで、高さ60.9mあり、秩父市と小鹿野町に跨って造られています。旧倉尾小学校・中学校(図4参照)は、このダム湖をすぐ下に見下ろすことのできる県道282号藤倉吉田線沿いの小鹿野町日尾地区の7265にあります。

  
写真22 合角(かっかく)ダム(西秩父桃湖) 写真23 旧倉尾小学校入口

  
写真24 倉尾中学校跡碑           写真25 旧倉尾小学校校舎

  
写真26 校舎と体育館との渡り廊下(通路)  写真27 旧倉尾小学校体育館とグランド


  
写真28 倉尾小学校の沿革碑            写真29 二宮尊徳像

 旧倉尾小学校の入り口(写真23)は県道すぐ脇のところにありました。その入口すぐ近くに旧倉尾中学校跡の記念碑が建っています(写真24)。ここに旧倉尾中学校があったのでしょうか、よく分かりません。旧倉尾中学校とその現状については、今後の課題とさせていただきます。先の入り口から敷地内に入って行くと旧倉尾小学校の校舎(写真25)があります。この建物は、沿革碑にも示されているように東西小が統合された1970年の翌年1971年に建てられています。校舎(写真25)前の広場の植木の間に、倉尾小学校の沿革碑(写真28)と二宮尊徳像(写真29)が建てられています。この沿革碑と二宮尊徳像のある場所から敷地内を西に少し進み、階段を昇って行くと、一段高いところに体育館とグランド(写真26、写真27)があります。体育館は昭和48年に建てられていますが、ここと校舎とは、比較的長い渡り廊下(写真26、写真27参照)で結ばれています。沿革碑にあるプールは、体育館東側の一段下がったところにあります。詳細については、今回は割愛させていただきます。

Ⅲ 皆野町における廃校とその現状について
1.皆野町
    
  
図5 皆野町地図(皆野町観光協会より)  写真30 秩父音頭
(秩父音頭のふるさとー皆野町より)

 皆野町(みなのまち)は、埼玉県北西部に位置し、秩父郡に属し、秩父市や本庄市、児玉郡神川町、大里郡寄居町、秩父郡長瀞町、東秩父村に隣接した町です。皆野町は戦国時代には皆野之郷、江戸時代には皆野村といわれていました。村名の「みなの」という名前は広大な原野地形にあるといわれています。明治に入って、1871年(明治4年)には入間県に属し、1873年には熊谷県の所属となっています。そして、1876年(明治9年)には埼玉県の属し、1879年(明治12年)には郡区町村編成法施行に伴い秩父郡に所属することになりました。さらに、町村制施行に伴い、1889年(明治22年)に皆野村が成立しています。そして、1928年町制施行に伴い、皆野町になっています。その後も近隣の村との合併や分離を繰り返しながらも、戦後になり、1955年(昭和30年)には、皆野町と国神村、金沢村、日野沢村が合併し、1957年(昭和32年)に三沢村を編入して、現在の秩父郡皆野町となっています。2023年9月1日現在の推計人口は8878人となっています。皆野町にはいくつもの観光スポットがあり、また歴史、伝統、文化に恵まれた地でもあります。

2.秩父音頭
 「秩父音頭まつり」は毎年8月に行われていますが、ただ、この秩父音頭の歌と踊りの発祥は、必ずしも明確なところはないようです。いわれているところは、今から凡そ200年前の文化文政期とされ、この時期に、観音信仰により流入した江戸歌舞伎や秩父において盛んになった養蚕業などが影響して始まったのではないかと考えられています。実際、秩父音頭の振り付け・所作の中には、歌舞伎の型や蚕道具、習慣などを垣間見ることができます。そして、昭和初期になると、それまで変貌、衰退を繰り返してきたこの踊りは、皆野の俳人金子伊昔紅(いせきこう)が自ら作詞し、公募した歌詞、吉岡儀作の節をもって、秩父豊年踊りとして再び公の場で公開されています。踊りの中には、秩父人の生業である養蚕と農耕の仕草が含まれています。そこには、霧に濡れた手鏡を顔に映して見る女性の姿があり、また荒々しい屈伸動作の中には、山峡の足腰の強さを表しているなど、秩父の厳しい風土と素朴で強靭な秩父人の心意気を余すことなく表しているように思います。お囃子は軽快な小太鼓と華やかな笙を底流とした笛と、これに大太鼓が入って、山峡の独特の雰囲気をつくり出しています。まさに秩父音頭は踊り、唄、お囃子が三位一体となって、秩父人の情念というべきものをつくり出しています。

3.皆野町における小学校の移り変わりと廃校とその現状
 皆野町には、現在町立皆野小学校と三沢小学校、国神小学校の3校があります。そうした中、これまでに、2002年に日野沢小学校が国神小学校へ統合のため廃校となり、2013年には金沢小学校が国神小学校へ統合のため廃校となっています。

❶旧日野沢小学校とその現状について

  
写真31 旧日野沢小学校            写真32 閉校記念碑

  
写真33 旧日野沢小学校         写真34 旧日野沢小学校

 
写真35 旧日野沢小学校(跡地解体後) 写真36 旧日野沢小学校閉校記念碑等

  
写真37 旧日野沢小学校パネル板   写真38 日野沢川ふれあい広場(看板)

 旧皆野町立日野沢小学校(写真31、写真32、写真33、写真34)は、県道284号線沿いにあった小学校です。住所は皆野町下日野沢で、創立は1874年です。国神小学校への統合のため、2002年(平成14年)に閉校となっています。1955年に写真のような校舎が建てられましたが、残念ながら、その美しい木造校も2018年に解体されています。それまで、地域の人たちから愛され、子供たちを見守ってきました。写真31、写真32、写真33、写真34は解体直前の2017年頃、撮影したものです。それからも、校舎は美しい建物であったことが分かります。今は写真35、写真36のようになっていて、日野沢川ふれあい広場(写真38)として利用されています。このように学校は、すぐ目の前を日野沢川が流れ、周りを緑の美しい自然に囲まれた中にあることが分かります。ただ、写真37の「皆野町立日野沢小学校」のパネルの中には、次のような文言が書かれています。それによれば、「・・・冬は校庭が霜で一日中白く光っていた日もあったといいます。校長室の柱に刻まれていたという句がその様子を静かに語っています。『十一時にあたる冬日がたふとくて』 伊昔紅」が示すように、この地域の人々は、自然の美しさや豊かさの中で生活しているという半面、一方では冬の厳しさを感じ、日の光りや日の温もりを貴びながら、生活しているという人々の想いを痛切に感じない訳にはいきません。伊昔紅とは、先の皆野の俳人金子伊昔紅(いせきこう)のことです。

➋旧日野沢小学校立沢分校とその現状について


写真39 旧日野沢小学校立沢分校

 旧日野沢小学校立沢分校は、先の日野沢小学校を右に見て、さらに日野川沢川沿いを概ね西方面に進んでいきます。途中から曲がりくねった坂道となり、峠に至ります。旧立沢分校(写真39)は、この峠近くの県道284号線沿い標高550mのところにあります。住所は皆野町上日野沢652となっています。立沢分校は、1876年に開校し、瓦屋根が印象的なこの小さな木造校舎は1962年に竣工したものですが、残念ながら、1979年3月31日に閉校となっています。写真40からも分かるように、学校は、まさに秩父のすばらしい山並みが眺望できる広々とした空(天空)の下に建っています。閉校後、一時は町営の宿泊施設「日野沢山の家」として利用されていましたが、今はカフェとして活用されています。この施設・カフェの名前を「天空の楽校」としているのは、運営者の方が「(町から)自由に改造して使わせてもらえるということから音楽スタジオを作ろうと計画し、のんびり田舎で音楽を作りたいという思いから皆野町へ来ました。」と述べていることから推測すると、音楽で楽しくといった想いがあったのでしょうか。間違っているかもしれません。そして学校自体が天空の下にあり、この天空の下で音楽をみんなで楽しくといった名前のカフェはすばらしいと思います。なお地元の女性らによる天空のちまき(地域との連携)は天空の楽校の一つの名物となっています。

  
写真40 旧立沢分校よりの眺望    写真41 旧立沢分校入口

➌旧金沢小学校とその現状について

  
写真 42 旧金沢小学校        写真43 旧金沢小学校入口

 皆野町市街地から県道44号線(秩父児玉線)を児玉方面に進むと県道の右側に旧金沢小学校(写真42)があります。少し坂道を上がるとグランドがあり、校舎建物はさらに一段高いところに建っています。校舎はコンクリートの2階建ての建物となっています。写真42の左の建物は体育館です。学校は2013年(平成25年)3月に国神小学校と統合のため、閉校となっています。今、写真43にあるように旧金沢小学校は、デイサービスももとせ学校(医療法人 彩清会 清水病院)として活用されています。ももとせ学校の名前の由来は、百年(ももとせ)歳まで、(人々が)いきいきと元気な生活が送れるようにという願いが込められているとのことです。

Ⅳ まとめ
 今回は、埼玉県秩父郡小鹿野町、皆野町における廃校とその現状について見てきました。その結果、ブログ第23話と同様、❶校舎がほかの用途で利用されているもの、➋あまり利用されていないが、校舎・建物はよく管理され、しっかり残っているもの、➌校舎は取り壊され、その後に新しい目的をもった建物が造られ、利用されているもの、➍校舎は取り壊され、更地や公園になっているものなどでした。本ブログに掲載した写真には、2017年、2018年頃に撮影したものと今年(2023年)に入って撮影したものが含まれています。そうした中、たとえば、日野沢分校の写真には2017年に撮影したものと今年2023年秋に撮影したものの両者が含まれています。それがかえって、解体前の様子と今の様子とが比べられてよかったのではないかと思っています。
 最後に、今回も、小鹿野町や皆野町の教育委員会と観光協会の方々から、多くのご支援、ご協力をいただきました。感謝申し上げます。そして、小森森林軌道(写真45)の著作者である山中正彦様からは、旧滝前分校や旧煤川分校について、いろいろとご教授いただくとともに先の貴重な著作物をいただきましたこと、御礼の仕様がありません。ありがとうございました。山中様の本の中には、小森の森林軌道に関わる内容が多く書かれているものの、旧滝前分校や前田夕暮のことなども大変詳しく書かれています。そうしたことを学ぶ上で、私だけではなく、多くの方々がこの本を読まれると大変参考になるのではないと思います。なお、前のブログで抜けていた、秩父市旧石間小学校(写真44)の画像を今回掲載させていただきました。
    
【参考・引用資料】
①フリー百科事典(ウイキペディア(Wikipedia)『埼玉県小学校の廃校一覧』、皆野町ほか
②地図(埼玉県mapbinder.com)
③小鹿野町地図(小鹿野町埼玉県mapbinder.com)、④小鹿野歌舞伎(小鹿野町観光協会)
⑤皆野町地図(ようこそ皆野町へ皆野町観光協会)、⑥秩父音頭(秩父音頭のふるさと皆野町)
⑦山中正彦:小森森林軌道―マルキョウが刻んだ生活の(くらし)の轍―、2022年
⑧山口美智子:村とダムー水没する秩父の暮らしー、すずさわ書店
⑨資料(みんなのみなの 皆野町協会)、⑩資料(haiko-riderのブログ)
⑪資料(ファイナルアクセス)→両神村両神小学校竹の平分校閉校、旧大谷分校、旧滝前分校、旧出原分校、旧倉尾小学校ほか
⑫資料(HARITYUS WEBSITE、廃校をたずねて?両神村の廃校3(2)煤川集落)
⑬資料(ブログ「Katowws メタルに生きる№84 合角ダムから倉尾中学校への廃校ぶらり」)
⑭資料(デイサービス ももとせ学校 施設概要 医療法人 彩清会 清水病院)
⑮資料(皆野町立日野沢小学校eduon!教育情報サイト)
⑯資料(秩父音頭まつり「主催秩父音頭まつり実行委員会」)
⑰資料(小鹿野町 小鹿野歌舞伎)、⑱資料「ガッコム(学校教育情報サイト)」
⑲地理院地図、⑳皆野町地図(皆野町観光協会)
㉑埼玉県地図(mapbinder.com)、㉒小鹿野町地図(埼玉県mapbinder.com)
㉓資料(報道発表資料「皆野町」)、㉔資料(皆野町「あの学校は今」)
㉕資料(学校紹介「国神小学校」)、㉖資料「小鹿野町の小学校再編整備(統合)方針及び実施計画」

【旧石間小学校・書物「小森森林軌道」】

  
写真44 秩父市旧石間小学校            写真45 著作物小森森林軌道