阿南と綾子  | ひまわりのブログ

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阿南と綾子 

  

人 物 

阿南惟幾(58)

阿南綾子(46)妻

阿南(4)五男

林三郎(41)秘書官 

月出三郎(45)陸軍衛生課長

 

○陸軍大臣官邸・外観(夕)

   T・昭和二十年八月九日夜十ニ時半、千代田区永田町にある陸軍大臣官邸。阿南(58)、陸軍大臣室に入る前に軍

   服の上位ポケットに手を入れ「恩賜」と文字が掘られた銀時計を取り出し、時間を見る。阿南を出迎える林三郎

  (41)。

 


)

林「大臣、お戻りになられましたか」

阿南「もう十二時半か。十一時五十分に御前会議が終わったからな」

林「御前会議では、例のことが決まったのでしょうか」

阿南「天皇陛下がご聖断を下された。日本はポツダム宣言を受諾する」

林「軍部は納得しているのでしょうか」

阿南「いや軍部は一億玉砕するまで戦い抜くつもりだ。何とか軍部の暴走を止めないとな」

林「これからが正念場ですね」

阿南「ここ数日は、忙しくなるぞ。公務が一段落したら、三鷹の家に戻ることにする。ずいぶん家族の顔を見ていないから

 な」

林「そうなさったほうがよろしいかと」

   阿南、軍服のポケットから銀の懐中時計を取り出し、時間を確認し、山のような書類に目を通す。

 

阿南邸・外観(夕)

   T・昭和二十年八月十二日夕方、東京都三鷹市下連雀にある私邸に帰宅する。阿南綾子(46)と阿阿南惟茂(4)が玄 

   関で阿南を迎える。

阿南「綾子、帰ったぞ。留守中、変わりはなかったか」

綾子「お帰りなさいませ。皆、元気に過ごしております」

   惟茂が阿南の手を引っ張る。

惟茂「父上、一緒にお風呂に入ろう」

綾子「惟茂、お父様は帰ってきたばかりよ。お風呂はお母様と入りましょうね」

阿南「よい、よい。惟茂、一緒に風呂に入るか」

惟茂「はい、父上」

阿南「綾子、風呂の後で食事がしたい。あるもので構わんから、用意してくれ」

綾子「承知しました」

   阿南、惟茂を抱いて風呂場に行く。綾子、台所に向かう。

 

○阿南邸・居間(夕)

   綾子、ちゃぶ台にすいとんの入ったお椀、麦ごはんをよそった茶碗を配膳する。風呂から上がって着物に着替えた

   阿南と惟茂がちゃぶ台に座る。

阿南「すいとんと麦ごはんか、今晩はご馳走だな。惟茂、わしの膝の上で食べるか」

惟茂「はい、父上」

阿南「惟茂、右手を出してごらん」

惟茂「はい」

   阿南、着物の袖から銀製の懐中時計を取り出し、惟茂の小さな掌に載せる。

阿南「惟茂、この銀製の懐中時計はな、わしが陸軍大学校を卒業するときに天皇陛下から下賜されたものだ」

惟茂「父上、『かし』というのは?」

阿南「惟茂、懐中時計の裏側を触ってごらん。掘られている『恩賜』という文字は、『下賜』と同じ意味で、天皇陛下が下さ

 ったものという意味じゃ」

惟茂「天皇陛下が下さったものなの?父上の懐中時計、ピカピカできれいだから、ぼく前からほしかったんです」

阿南「そうか。この時計に負けない立派な大人にならないとな。時間を無駄にするな。一日二十四時間、どう生きるかはおま

 えしだいだよ」

惟茂「はい、父上」

綾子「あなた、惟茂はまだ四歳ですから、時計を持たせるのは早すぎますわ」

阿南「惟茂にこの時計を譲るが、管理はおまえがしてくれ」

綾子「はい、承知しました」

   阿南、惟茂に渡した懐中時計を綾子に渡す。阿南、惟茂を膝に乗せたまま麦ごはんを一口食べさせる。

阿南「綾子、おまえに一つ頼みがある。天皇陛下から下賜された白いワイシャツをわしの鞄に入れておいてくれないか」

綾子「はい、承知しました」

   一家団欒の食事中に玄関の扉を叩く音がする。綾子、すぐに玄関に向かい応接間に来客を通す。阿南、応接室に向か 

   う。

阿南「すまぬ綾子。二人で食事をしてくれ」

綾子「気になさらないでくださいませ。お仕事のほうが大事ですから」

  綾子、三組の来客を応接室に通し、阿南が応対。居間の柱時計が午前一時を指す。

陸軍大臣官邸・外観(夕)

   T・昭和二十年八月十四日夜十一時、陸軍大臣官邸。陸軍大臣官邸に戻る阿南、軍服上位ポケットに手を入れるが右手

   の将校用時計を確認。阿南を出迎える林三郎(41)。   

林「大臣、どうされましたか」

阿南「いつもの癖でね、銀時計を確認しようと思ったらないことに気づいた」

林「あれほど大切になさっていた銀時計、どうなさいましたか」

阿南「形見分けとして惟茂に譲った」

林「形見分けなどと、大臣、何をおっしゃいますか」

阿南「軍人の心構えだよ。ところで頼んでおいたものは、用意してくれたかい」

林「はい、半紙二枚を大臣の机の上に置いてあります」

阿南「結構。今晩はもう誰も部屋に通さないように。もう遅いから君は帰り給え」

林「大臣」  

阿南「どうした。君は有能な書記官だ。よくやっているよ。明日の朝、登庁したら私の机の上の書類を確認してくれ給え。頼

 むよ」

林「承知しました」

   林、深々と阿南に頭を下げ、陸軍大臣室から退出する。

阿南「日付が変わるまで後小一時間ほどだな。身体を清めてから書き物をするか」

 

○陸軍大臣官邸・陸軍大臣室(朝)

         T・昭和二十年八月十五日朝七時半、陸軍大臣邸、阿南陸軍大臣自決。林、出月三郎(45)と同邸に駆け付ける。

出月「阿南陸軍大臣は、本日五時半に自刃、同七時十分に絶命しました」

林「すぐに阿南夫人に連絡し、ご自宅にご遺体を搬入しましよう。本日は、正午に玉音放送がある。米軍がこの官邸を接収す

 るかもしれない。急ごう」  

  出月、阿南の遺体を担架に乗せ、衛生車両に乗せる。林、大臣の机にある書類を確認し、鞄に入れて乗車。

 

○阿南邸・玄関・前(朝)

   衛生車両が阿南邸玄関前に泊まる。林が玄関の扉を三回叩く。玄関先に駆け付ける綾子。

林「奥様、阿南大臣が戻られました」

綾子「主人は、登庁しているはずですが、主人に何かあったのですか」

林「奥様、阿南大臣は今朝、大臣官邸で自決されました。陸軍大臣としての本懐を立派に遂げられました」

   綾子、顔面蒼白になり、その場に倒れそうになるが、林が抱きかかえる。

林「気をたしかに、奥様」

綾子「主人が自決したなどと、嘘ですわ。つい三日前も自宅に戻ってこられたばかりですわ」

出月「奥様、私が阿南大臣の検死を致しました。立派な最期を遂げられました」

綾子「そんなことって」

林「奥様、阿南大臣を荼毘に伏す前にご自宅の布団に寝かせてあげてください。ご遺体を運ばせていただきますので、奥様

 は、寝具の準備をお願いできますか」

綾子「わかりました」

 

○阿南邸・寝室・中(朝)

   綾子が敷いた布団に林と出月が阿南の遺体を寝かせる。天皇陛下から下賜された白いワイシャツには赤い血が染まって

   いる。林、「阿南綾子殿」と書かれた阿南の遺書を綾子に渡す。

林「奥様宛の大臣の遺書です。ご家族とのお別れは、三十分ほどでお願いします」

綾子「家族を呼び寄せてお別れしたいのですが、お時間をいただけませんか」

林「申し訳ありません。本日正午に玉音放送があります。軍部が接収される前に市谷台の償却炉で大臣のご遺体を荼毘に伏さ

 なければなりません」

綾子「日本が負けたのですね。主人は、軍部の責任を取ったのですね。わかりました」                                      

出月「奥様、大臣は割腹されています。止血はしましたが、幼いお子さんには布団をかけたまま見せないでください」

綾子「わかりました」

   林と出月、退出。綾子に連れられ、銀

製の懐中時計を持って、阿南の布団に駈け寄る惟茂。

綾子「お父様にお別れのご挨拶をなさい」

惟茂「お父様、起きて。お父様の懐中時計はチクタク動いているよ」

   阿南に懐中時計を見せる惟茂。

綾子「さあ、お父様にお別れを言いなさいね」

   惟茂を抱きかかえ涙する綾子。