このポスターのような一枚紙。
拙ブログで紹介したのは10年ほど前の2013年9月。
武田信玄麾下、およそ500人の武将名が記されている
「武田家属将美名録」。
左右80センチ、天地100センチほど。
以来10年、よく拙ブログにアクセスしていただき、最近三か月間でもアクセス数は50以上も。
当時、拙著『信州往来もののふ列伝』(しなのき書房)を刊行、当然ながらその中に「武田信玄」はじめ主要家臣団の馬場、高坂、板垣などの諸将伝も載せた。
嬉しいことに地元松本在住で読んだ方がこの「美名録」を持参、武将名の中に自らの祖先が載っているということもあって、コピーを頂戴した。
驚喜していただいた私は、以来これを校長室の目立つところに貼付した。
「ほぉ、これって何ですか」
「私の苗字は…」
「信玄の家臣ってこんなに!」
などなど、その後余談談笑に事欠かなかった。
物珍しさもあって、長く雑談の話題となったことを懐かしく思い出す。
さて前置きが長くなってしまった、本題に。
注目していただきたいのは、最上段左右に列している三十二将、左の段の4番目。
「武藤喜兵衛尉昌幸」は、誰あろう真田昌幸である。
信玄から「わが眼」とまで称され、信頼されていたという昌幸は、真田家の三男ということもあってか、甲斐の名門・武藤家の養子となり武田家の譜代衆とされたのである。
上二段に「武藤」を名乗る将は五人を数える。
さらに昌幸から左二人目は「真田弾正忠幸隆」、昌幸の父で「攻めの弾正」の異名をとり、信玄館近くに館を構えていた。
さらに左へ目をやると「真田兵部丞昌輝」、昌幸のすぐ上の兄。
そして左へ、「真田源太左衛門信綱」。幸隆の嫡子、真田家の跡取りである。
信綱の屋敷も信玄館近くに置かれていた。
かくのごとく真田一族は昌幸のみならず、幸隆・信綱・昌輝も、まさに譜代衆のように重用されていたのである。
無念というべきか、信綱・昌輝は長篠の合戦にて討ち死。
真田家の跡継ぎは三男の昌幸となった。
戦国最強軍団として「武田二十四将」は名高いが、特に二十四人が決まっているわけではない。
後世の人々が選んだものだが、二十四人の中にしばしば「幸隆・信綱・昌輝・昌幸」が入っているものがあったりする。
いかに真田一党が武田家から信頼されていたかを、後世もまた認めていたかを物語っている。
昌幸の兄、信綱・昌輝については次回! ぜひぜひお見知りおきを!
▼長篠古戦場の信綱・昌輝の墓所