悠久広大な坂東の地をまだまだ巡る。
これはかつて筑波山から望んだ関東平野。
我が信州ではとても。
群馬県太田市の金山城から十数㌔、
また去年来た新田義貞首塚の桐生市善昌寺からは、なんと数㌔ほど。
「そうか、こんな近くだったんだ、本当にすっかり、忘れていた!」
群馬県みどり市笠懸町の岩宿遺跡。
旧石器が発見された峠道。
道の左手に遺跡の碑が立つ。
ここが有名な岩宿遺跡。
そして遺跡を発掘し、旧石器を発見した相沢忠洋さん。
発掘した打製石器を手にする像が立っている。長~く忘れてたなぁ。
数十年前、日本史を教える者なら「ここは行っとかんと!」と、勇んで来た岩宿遺跡だったのに。
最近というか、この間すっかり忘れていた岩宿遺跡と相沢さんのこと。
久しぶりに偶然訪ねて懐しかった。
かつて教員の頃、毎年春4月、
「ところで、諸君みんな。おそらく今頃、日本列島北から南、日本中の中学・高校日本史の授業にて、一斉に語られているある人物がいる。その人の名は『あいざわただひろ』」
「日本史教科書の、ほぼ最初の頃のページにその人の名は載ってるぞ」
「なんせ日本に、先土器時代・旧石器時代という時代があったことを、我ら祖先が氷河時代の日本列島(まだ島国ではなかったころ)に闊歩していたということを、初めて証明した人、その人が相沢忠洋さんだった」
「今は普通に、旧石器時代・新石器時代と言っているが、それまでは日本の歴史は縄文時代から始まると考えられていて、1万年以上前の氷河時代に人が住んでいたなんて誰も知らなかったのさ、のさ」
「それがさ、70年ほど前、相沢さんは関東ローム層という数万年前の赤土の地層の中から打製石器を発見した!」
しかし、本人も、
「関東ローム層の赤土から石器が? そんなぁ!」
名だたる考古学者も専門家も信じなかった。
「誰が発見したって? なぬ~ 納豆屋さん? そんなバナナ、いやばかな(哄笑爆笑)」
………その日も朝早く、相沢さんは、隣の村に納豆を売りに行くため、自転車を押しながらで岩宿の切通しの道を越えて登り坂を歩いていた。
すると昨夜の雨で、切通しの赤土の斜面の土砂がわずかに崩れ落ちていた。
と、土砂の中に何かキラリ光るものが。「石器か?」
幼いころから土器や石器を集めることが趣味だった相沢さんは、氷河時代の赤土層に人間が作った石器があるはずがない、とよく知っていた。
しかし相沢さんは発見した。
遺跡とかつての切通しの道をはさんで相沢さんの像が立つ。
縄文土器以前の日本列島には人はいなかったと当たり前に考えていた学者たちも、この発見に仰天すると同時に、懐疑的となった。
学者でなく一民間人の発見ということで猶更だった。
「たかが納豆売りの、どしろうとの…」と。
そんな中、考古学の重鎮だった芹沢長介氏は、正面から相沢さんの言葉に耳を傾け、自ら岩宿へ足を運び、さらなる打製石器の発見に努めた。
そして、ついに歴史学・考古学の歴史を大きく塗り替えたのである。
吉川英治賞を受賞した相沢氏の著作『岩宿の発見』は、研究書というより氏の一代記のようだった……そんなことを思い出した。
「所詮、行商人のアマチュア」などと軽視される中、しばしば相沢さんは、100㌔もある東京の芹沢氏のところまで、日帰りで自転車に乗って発掘資料などを持っていったとか。
今や旧石器跡時代の遺跡は全国に4000か所以上も。まさに相沢さんの発見は日本史を大きく変えたのである。
思い出せて良かった! 久しぶりに訪ねて良かった。
遺跡の直ぐ近くには、立派な岩宿博物館がある。