「あのう、すみません、『楯親忠』の碑、さがしてるんですが…」
「たて?❓ うー、たてろくろうかいのう?」
「そうです、楯六郎、楯六郎親忠の館跡の碑を探してるんですが…」
「ふーん、あれかなぁ、あれだわな、そんなら、そこの坂の道登ってくと…」
炎天下で畑仕事やってるおばあさんに、おじいさん(列伝のこと)が道を聞いた。
おばあさんの額は汗ダラダラ、私は車から降りて、いきなり灼熱の炎天下
!
「こんなに暑いに、よく仕事してすごいですね!」
「な~にこんくれぇ、どっから来ただぁ?」
「松本の方からせ…」(はやため口)
「ほお~、遠くからのう、よくまぁ。そんだ、これもってけや、もってけや、そいてジャガイモも、いっぺあっから」
「いや、そんな、いいです、そんなにわるいす…」
といいつつ、両手が出てる列伝、さや隠元まで、どっさりいただいて。
「いいんかね、こんなにいっぱい、すみません」
「いいさや、いいさ」
「ありがとうございます、スミマセン、道聞いてもうかっちゃって…」
「いいさ、いいさ、まぁ気いつけてな~」
てなわけで、他県のような佐久穂町へ来て、思わぬ「収穫」。
て、いうか、なんとも炎天下でますます汗が。
親忠の碑を、佐久穂市海瀬というあてだけで来たよかったか。
楯六郎親忠、我が信州の源氏の将、木曽義仲家臣の四天王の一人である。
木曽からも安曇野からも、いくつもの山と峠を越えて、佐久地方を久しぶりに訪ねた。
「おぉ、あった、ここだ!」
写真奥の、遠くの山は信濃と上野・武蔵の国境の山並み。
大河ドラマ『どうする家康』にて、主役・家康をしのぐ活躍を示す側近の家臣たちに注目も人気も集まっている。
後に有力な譜代大名として徳川の世を支える酒井、本多、井伊、榊原。
世は「徳川四天王」と称して讃える。
だが主君を支え、忠誠を尽くした家臣は、徳川ばかりではない!
我が信州の木曽義仲にも「義仲四天王」がいた!
今井四郎兼平、樋口三郎兼光、根井大弥太行親、そして無名に近い楯六郎親忠。
楯親忠の父は根井行親。
親忠居館跡から北へおよそ18㌔、佐久市根々井の正法寺。
境内に根井行親の供養塔と、根井氏居館跡の碑が立っている。
「行親さんはかなりの豪傑だったというのに、負けてしまいましたからね…」
正法寺の方としばし、本堂前で根井行親・木曽義仲談義を交わす。
「供養塔とはいえ、正法寺ここに古びた墓塔が立っていて、以前来たとき嬉しかったですよ」
「行親さんは馬を放り投げるほどの強力だったというような話は伝えられているのに、六郎さんの方は伝承がなく残念ですよね」
「皆、敗れて信州に帰れなかったというのもなにか寂しいですね」
「後に群馬県のほうに、根井一族はここから移ったとか…」などなど。
小一時間も話に花を咲かせた。
行親・親忠について、こんなに長く話したことは初めてのこと、それが私は嬉しかった。
「拙著をぜひ読んでください」と、後で送ることにした。
いつの日か、義仲四天王に目が注がれんことを。
根井行親。
このもののふなくして、木曽義仲の挙兵はありえなかった。
しばし行親のこと、ぜひ読んで頂きたく、しばしぜひ。
根井行親(ねのいゆきちか ?~1184)
源平時代の武将。
東信濃一帯に勢力を持った豪族。
義仲の養父・中原兼遠の懇請で、治承4(1180)年の義仲の依田城挙兵の強力な後ろ盾となる。
横田河原の合戦以来各地で活躍、義仲とともに上洛。
しかし元暦元(1184)年の鎌倉方との合戦で討死する。
四天王の一人・楯親忠の父。
享年40前後か。
根井行親はとてつもない豪傑であった。
宇治川の合戦といえば、名馬で先陣争いをした佐々木高綱と梶原景季が勇名を馳せる。
しかし鎌倉方の大軍と最後まで戦い抜いた木曽方の指揮官・根井行親の獅子奮迅の戦いぶりはあまりに知られていない。
「源平盛衰記」はその行親をあますことなく伝えているのに。
次々と渡河して押し寄せる鎌倉方の大軍。
小勢ながら迎えうつ行親勢。
突っ込んできた敵の一人をつかまえ、
「脇ニ挟ンデ強ク絞メ」殺し、ついで挑んできた武者は、
「鎧ノ上帯ヲ取リテ、ムズト引キ上ゲ、深田ヘ向カッテ投ゲタレバ死ニケリ」と。
あまりの行親の怪力に敵兵は恐れおののいた。
だが多勢に無勢、行親は何度も敵を押し戻しが…。
信濃挙兵以来、初めての無念な敗退であった。
四季を通じて観光客が絶えない京都・宇治平等院鳳凰堂近くの宇治川岸一帯。
中州の橘島に立つ「宇治川先陣之碑」が800年前、このあたりで激しい合戦のあったことを想起させるのみである。
東信地方は望月・海野・根津氏など、かつての滋野一族の分派が勢力を張っていたが、当時は同族の根井氏の力が群を抜いていたのであろう。
義仲の養父・中原兼遠は、義仲の将来を託す人物として行親に白羽の矢を立てた。
「お任せあれ、兼遠殿。一族あげて義仲様をお支え申す!」
と、胸を張って行親は快諾した…。