ここんとこ「大谷、打ったか?」で始まる朝。
王も長島も、張本も落合も、そして金田も成しえなかったホームランを量産して、ピッチャーで勝利して、大谷ってすげぇ!
こんなすごい野球人が出現するとは! しかも日本人!
驚喜の一語!
というわけで本日の銅像トップは、武人でなくオータニのライバル?のこの人。
まさか投手もやっていたとは知らなんだ。
静岡・草薙球場、バッターとしてかまえるベーブ・ルース像。
投げるは「オータニ」でなく、沢村栄治像。
1934年、ルースを1安打3三振に抑えた日米野球試合が行われた記念球場に立つ両雄。
投げる沢村。
打つは、野球の神様ベーブ・ルース。
左端と右端の像、わかるでしょうか、写真下手でスミマセン!
大谷さんにはがんばってほしいですね。
では本題。
まず、主役は武将像でなく、馬の像。
馬の名は「磨墨(するすみ)」、騎乗するは梶原源太景季。
頼朝秘蔵の真っ黒な名馬を景季は切願して拝領、上洛軍に参陣した。
景季は、あの宇治川の合戦にて白馬・池月(生食・いけづき=これまた頼朝秘蔵の名馬)に騎乗する佐々木四郎高綱と渡河の先陣争いをした。
宇治川古戦場の名場面。
岐阜県国道472号線沿い、道の駅・「磨墨の里」に立つ見ごたえのある像は初見参。
ここは名馬・磨墨を産んだ地ということで立てられたという。
宇治川の先陣争いは池月騎乗の高綱が僅差で勝利。
因みに、佐々木高綱は我が信州・松本に「高綱中学校」の名を残し、墓所も学校近くにある(拙著CM「信州往来もののふ列伝」をぜひご覧あれ)。
さらに因みに、景季は後に父・景時とともに幕府軍に敗れ討死、ルースと沢村の、あの草薙球場のすぐ近くにて…。
源義平・おみつ像。
国道158号線沿いの道の駅「九頭龍」近く、笛の館庭園。
源義平とは源義朝の嫡男、通称「悪源太義平」。
あまりに勇猛な武将にて、人々は「悪=強い」と付けて畏怖した。
しかし、平治の乱で源氏方は敗れて四散、義平は越前山中のこの地に逃れ村人に匿われていた。
その後、父・義朝の討死を知り、仇討ちを決意して都へ。
恋仲だった村の娘おみつにかたみとして青葉の笛を残したという伝説の像。
義平像の顔、いい顔だけどちょっと老け顔だなぁ、二十歳なのに。
道の駅「九頭竜」には、こんなすげぇ、恐~い親子の恐竜が!
しかもこれが動く、吠える! こえぇー!
これじゃ、義平さんとこまでは見にいかないわなぁ。
因みに、義平は京にて平家方に捕まり、憐れ斬首。享年二十。
後に義平の妻は、義平の死を知ると都に上り、その首級を密かに持ち帰り上野国・清泉寺(群馬県太田市)↓に埋葬、自らは尼となり夫の菩提を弔ったという。
墓塔(右)は、かなり磨滅しているが、悪源太義平と刻まれている。
九頭竜の里から福井の城下町へ。
ちょうど休日にて福井城内の県庁には人影少なく、天守台などをのんびり見物。
初代城主、松平秀康騎馬像。
本丸のお堀端を散策周回。
それにしても福井城石垣の切り込みはぎ・打ち込みはぎは美しい。
ちょっとやそっとでは崩れそうにない。頑丈そう、堀も深そう。
お堀端散策ではまず、この二人の像に会わなければ。
「小楠先生、故郷の熊本にお帰りとか。拙者光岡八郎(由利公正)をぜひお供させてください」
「お、八郎君と同道できるとは嬉しいね、長崎での商談、うまくまとめましょうぞ」
とかなんとかと、笑顔で言葉を交わしているのだろうか。
右・横井小楠、左・福井藩士・光岡八郎(後の由利公正)。
私の超お気に入りの像、お会いするのはもう何度目か。
小楠は熊本藩出身の開明学者、藩主・松平春嶽が特に招いた。
後に明治新政府の参与となるも暗殺される。
八郎は、小楠門下の福井藩士。春嶽の側用人を務めた。
後に明治政府に出仕、あの五箇条御誓文の起草にかかわる。
市内幸橋畔に立つ由利公正像。
竜馬曰く「天下の人物といえば、西郷と由利公正」
カメラを構えた地近くに、公正の生家跡碑が立っている。
お堀端へ戻って。
城の北側の御廊下橋、山里口御門。
左手が天守台。
お堀端の福井神社境内に、松平春嶽像が。
ここから北へしばらく行くと、橋本左内宅跡あり。
さて次は左内町の左内公園へ行かねば。
由利公正像から近いところ。
左内さんは、公園の中央、青空の中に高くたっていました。
若々しくきりっとしたいい顔。
江戸で斬首処刑された時、あぁ、弱冠25歳。
明治の時代に生きていたら、どんな活躍を…。
福井の偉人をもう一人。
福井城北側の公園広場におわしました。
岡倉天心像。
会いに来たよの銅像たち、まだ続きます。