「加賀前田、謀反! 北国街道を進撃中!
越後高田城は、先陣盾となって阻むべし!」
初代七十五万石城主は家康六男・松平忠輝、
築城天下普請の総指揮は、忠輝義父の独眼竜政宗。
というのも、何やらおだやかではなかったような…。
高田城に今まで数度来たものの、象徴の三重櫓を見て満足し、どうしても近くの、謙信の春日山城に行ってしもうた。
今回は、高田城のお堀端をグルリ廻って散策しようかと。
築城当初に建造され、二の丸と本丸をつないでいる朱色の極楽橋からスタート。
季節は卯月、花見の全盛期をほぼ過ぎたころ。
それにしても水堀が広い!
今までは気づかなかった。
土塁が低いことも改めて見知った。
堀はまるで川か池のよう、最深で5メートルほどという。
二の丸の御堀端を歩いていくと、見えてきた、見えてきた。
1993年に総工費7億円にて完成、桜四千本という高田城公園のシンボル・三重櫓。
それにしても堀が広大。何回も言うてスミマセン。
二の丸から三の丸の間の西堀(外堀)。
5年前、「テニス部三強の旅」で来た時は、一面蓮の花だった。
ここからさらに北へお堀端を歩く。
もうお堀というより池だな、これは。
石垣も組まず、百万石前田の進撃を食い止められるのか?
忠輝・政宗父子は何か他の目論見を考えていたのか?
高田城の完成は1614年、大坂冬の陣の年。
翌年、豊臣滅ぶ。さらに翌年、家康逝去。
だが忠輝は、父・家康の死に目に会えず、改易配流となる。
改易の理由はさまざまに述べられているが…。
改易された年の頃の忠輝にまつわる風聞を、忠輝と親交が深かったという平戸イギリス商館長リチャード・コックスは、その日記にこんな興味深いくだりを書き記している。
「元和2(1616)年1月ごろ、風評だが、家康と忠輝の間に戦いが起こるらしい。
忠輝の義父・伊達政宗(忠輝正妻は政宗娘の五郎八姫)は、忠輝の味方をするという。
原因は家康が忠輝に秀頼亡き後の大坂城を与えなかったからとか」
忠輝は、伊勢から飛騨、そして信州・諏訪高島城へと配流された。
忠輝が居住していた屋敷の南の丸跡地の片隅に、忠輝を祀った祠がひっそりと立っている。
92歳、将軍綱吉のころまで生きた忠輝は、市内貞松院に眠っている。
因みに寺宝として、忠輝が形見として家康から授かった「野風の笛」が伝えられているという。
城郭としては、あまり魅力がない高田城なれど、初代城主・松平忠輝は謎めいた魅力あふれる人物である。
拙著「信州往来もののふ列伝」(しなのき書房)に、忠輝の一代記を載せてあります。
また忠輝の付家老で、信州・松代城代だった花井吉成は、「負けても負けぬ三十二将星列伝」(しなのき書房)に。
これを機に、ぜひご贔屓のほどを。