●広大な水堀の越後高田城 初代城主はあの松平忠輝 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

加賀前田、謀反! 北国街道を進撃中! 

越後高田城は、先陣盾となって阻むべし!」

初代七十五万石城主は家康六男・松平忠輝

築城天下普請の総指揮は、忠輝義父の独眼竜政宗

というのも、何やらおだやかではなかったような…。

 

高田城に今まで数度来たものの、象徴の三重櫓を見て満足し、どうしても近くの、謙信の春日山城に行ってしもうた。

今回は、高田城のお堀端をグルリ廻って散策しようかと。

 

築城当初に建造され、二の丸と本丸をつないでいる朱色の極楽橋からスタート。

 

季節は卯月、花見の全盛期をほぼ過ぎたころ。

それにしても水堀が広い!

 

今までは気づかなかった。

土塁が低いことも改めて見知った。

堀はまるで川か池のよう、最深で5メートルほどという。

 

二の丸の御堀端を歩いていくと、見えてきた、見えてきた。

1993年に総工費7億円にて完成、桜四千本という高田城公園のシンボル・三重櫓。

 

それにしても堀が広大。何回も言うてスミマセン。

 

二の丸から三の丸の間の西堀(外堀)。

5年前、「テニス部三強の旅」で来た時は、一面蓮の花だった。

 

ここからさらに北へお堀端を歩く。

 

もうお堀というより池だな、これは。

石垣も組まず、百万石前田の進撃を食い止められるのか?

忠輝・政宗父子は何か他の目論見を考えていたのか?

 

高田城の完成は1614年、大坂冬の陣の年。

翌年、豊臣滅ぶ。さらに翌年、家康逝去。

だが忠輝は、父・家康の死に目に会えず、改易配流となる。

 

改易の理由はさまざまに述べられているが…。

 

改易された年の頃の忠輝にまつわる風聞を、忠輝と親交が深かったという平戸イギリス商館長リチャード・コックスは、その日記にこんな興味深いくだりを書き記している。
 

元和2(1616)年1月ごろ、風評だが、家康と忠輝の間に戦いが起こるらしい。
忠輝の義父・伊達政宗(忠輝正妻は政宗娘の五郎八姫)は、忠輝の味方をするという。
原因は家康が忠輝に秀頼亡き後の大坂城を与えなかったからとか」


忠輝は、伊勢から飛騨、そして信州・諏訪高島城へと配流された。


 

忠輝が居住していた屋敷の南の丸跡地の片隅に、忠輝を祀った祠がひっそりと立っている。


 

92歳、将軍綱吉のころまで生きた忠輝は、市内貞松院に眠っている。

因みに寺宝として、忠輝が形見として家康から授かった「野風の笛」が伝えられているという。

 

城郭としては、あまり魅力がない高田城なれど、初代城主・松平忠輝は謎めいた魅力あふれる人物である。

 

拙著「信州往来もののふ列伝」(しなのき書房)に、忠輝の一代記を載せてあります。

また忠輝の付家老で、信州・松代城代だった花井吉成は、「負けても負けぬ三十二将星列伝」(しなのき書房)に。

これを機に、ぜひご贔屓のほどを。

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