●上杉謙信の新史料に村上義清の名が! | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

大きな見出しで載った。

やはり長野県の新聞(信濃毎日新聞)だからかな。

 

我が信州の、特に北信濃(北信)における謙信人気は今もすごい。

 

小学校時代を北信で過ごした私は、謙信はまさに「尊敬する人物」だった。当時は、村上義清などほとんど知らなかった。

 

信玄に故郷の北信濃・坂城町の葛尾城を追われ、謙信を頼った村上義清、それがあの激戦川中島合戦の原因となった。

その裏付け史料ということか。

 

義清は、上田原の合戦、さらに「砥石崩れ(砥石城の合戦)」で、二度も信玄に勝っているのに、ついに信濃を去り、信濃に戻ることはなく、越後で散って逝った。

 

▼上田原の古戦場。

左に千曲川。正面の倉升山に信玄の本陣。写真真下の平地に義清本陣

 

その後、義清は故郷の坂城町では英雄として慕われていることを知った。

 

清流ほとばしる千曲川畔の坂城町を訪ねると、義清の居城・葛尾城はまるで町のシンボル塔のごとく高くそびえたっている。

市街地の義清公墓所は、寄棟造の屋根で保護され、周囲に石畳を敷き、落ち着いたたたずまいの立派な作り。

また「坂木宿ふるさと資料館」では義清の生涯などを詳しく紹介、町として義清を特に敬慕していることを強く感じた。

 

坂城小学校の校歌は明治時代に作られ、その歌詞に、

「♪~城址の松風は 名将村上義清の 偉名を千代となりひびく」と。

 

義清は越後の上杉のもとでその生涯を終え、ついに坂城に戻ることはなかった。

同じく坂城町の村上小学校校歌では、

「♬~越路の雪に 埋ずみても 知るきその名は 世に絶えず

と、義清を誇り高く歌っている

 

江戸時代、大権現・神君の徳川家康を三方原の戦いで大敗せしめた名将・信玄の名は否が応でもあがった。

その東照神君家康もかなわなかった信玄に、上田原の合戦、そして砥石崩れ(砥石城の合戦)にて、二度も大勝したのが村上義清なのである。

故郷では、おおいにその武勇を称えている。

 

だが私は、ずっと謙信ばかりにとらわれて、村上義清のことはあまり知ろうとしなかった……。

 

くなったが、本当に遅くなってしまったが。

先日初めて、越後の地で寂しく世を去ったという義清の墓地を知り訪ねた。

上越市の光源寺

お寺の方に聞かなければ、なかなか分からない場所。

「村上義清の墓」と、あったが、義清が父のために立てた供養塔とも。

そして糸魚川市・安福寺

最後は現・糸魚川市の根知城を任されていたという義清。

そのすぐ近くの寺。

坂城町の墓所は、この地から分骨されたとも。

 

中信濃・小笠原氏と双璧といわれるほどの信濃の勇者だった村上義清

第4次川中島合戦では、信玄弟・典厩信繁を討ち取ったとも。

 

安福寺の墓所は少し寂しかった。

近くから雨飾山が雄々しく望め、義清を今も見守ってるようだった。

因みに義清のことは、前著「信州往来もののふ列伝」で書いた。

だが当時は、不覚にも光高寺も、安福寺も知らず。

やっと、報告墓参が出来たということか。

 

 にほんブログ村  日本史 ブログランキングへ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

   拙著 「信州往来もののふ列伝」

しなのき書房   定価1296円発売中   ぜひご一読のほどを!

         信州ゆかりのもののふ五十人!              

坂上田村麻呂    平 将門  岡田親義    手塚光盛   根井行親   今井兼平  木曽義仲  

木曽義高 佐々木高綱  熊谷直実  梶原景時  源頼朝   北条国時 北条時行 宗良親王 

 

小笠原長時  村上義清  武田信繁  山本勘助  馬場信春  高坂昌信   

武田信玄  上杉謙信  木曽義昌  仁科盛信  依田信蕃   織田信長 明智光秀  

 

森長可 上杉景勝  佐々成政  石川数正  仙石秀久 真田昌幸  真田信繁  真田信之  

小笠原秀政  福島正則  花井吉成   松平忠輝   保科正之  赤埴源蔵  吉良義周

 

太宰春台  武田耕雲斎 佐久間象山  中岡慎太郎  赤松小三郎 堀直虎  相良総三

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●