はや1年を経過した「信州知られざる古戦場」シリーズ。
ありがたいことに、地元松本のタウン紙「MGプレス」に1か月1度、掲載させてもらっています。
今まで取り上げてきた古戦場は12か所。
以下のごとくです。
1塩尻峠の戦い 2上田原の戦い 3野々宮の戦い
4高遠城の戦い 5桔梗が原の戦い 6岩尾城の戦い
7和田峠の戦い 8瀬沢の戦い 9小岩嶽城の戦い
10横田河原の戦い 11大倉城の戦い 12鳥居峠の戦い
このブログ内にすべて載せてありますので、ぜひまたご一読いただければ嬉しいです。
今回は、あの信玄がなんと敗れた砥石城の合戦。
これまたご一読いただければ。
お願いばかりですみません。
砥石崩れ(砥石城の合戦)
武田信玄VS村上義清
天文19(1550)年8~10月
砥石城は、上田市街の北東およそ5キロ、太郎山東端の地にある。
南北に尾根を連ねる山並みの東側に流れる神川(かんがわ)の急崖を利した山城で、比高およそ200㍍、葛尾城(坂城町)城主・村上義清の東信一帯をにらむ最前線の城である。
城跡の南側に復元された城門から本郭へと歩を進める途中、一息入れて振り返ると、上田盆地一帯を広く望むことができる。
霞んでいて千曲川の川筋もよく見えない。
東の高台から城全体を望むと写真のごとく、まさに「砥石」といえようか。
天文19(1550)年8月、信玄は佐久地方の城砦を次々と落とし砥石城へと迫った。
2年前、上田原で義清に敗れた屈辱を晴らすためでもあり、砥石城を攻略して義清の東信・佐久への支配力を弱めるのがねらいであった。
城の守備兵500に対し、攻める信玄方はおよそ7000の大軍だったという。
信玄は真田本城(上田市真田)の真田幸隆などにかなり入念な城の探査をさせたようだが、やはり大軍を擁した油断か、力攻めを命じた感がある。
▼砥石城を望む近くに幸隆のレリーフ像がある
だが城の急崖に阻まれた。
また城兵の抵抗は手ごわく、死傷兵の急増に焦った信玄は、自ら城近くにて陣頭指揮をとったという。
しかしなぜ比較的勾配が緩やかな城の北方あたりから攻めなかったのか、そのあたりが解せない。
当時義清は、北信濃の高梨氏と対立して出陣中、その間に信玄は砥石城を攻落するつもりだった。
そこへ突然、「村上勢、こちらに向かって進軍中!」の報が。
愕然とする信玄、事態は急転した。
砥石城での激しい攻防を聞き、北信濃へ出陣していた村上義清は、対立していた高梨氏と直ちに和睦を結び、居城・葛尾城へ帰陣、砥石城へ急行した。
一方、信玄方は、城の東側からの攻撃に難渋していた。
また城兵は500ほどだったが、先の佐久方面での戦いで、志賀城の周囲に3000の首級を晒すというむごい仕打ちを受けた生き残りの兵士が、「信玄憎し!」と加勢、石落とし、煮え湯を浴びせるなどして意気極めて盛んに城を守った。
「無念だが、ここは引かざるを得まい…」
義清の本隊が来援して、背腹から攻撃を受けると一気に戦局は不利となる。
軍議は撤退と決した。
武田勢は砥石城を後にして、佐久方面へ撤退をはじめた。
ところがそこへ義清が着到、武田勢に襲いかかった。
「信玄を逃すな!今度こそ討ち取れ!」
砥石城内からも一斉に打って出た。
退く武田、追う村上!
砥石城一帯で激烈な合戦が展開された。
戦いは村上方が圧倒した。
史書「妙法寺記」に、武田方「千人ばかり討ち死になされ候」とあるほどで、やっと望月宿あたりまで逃げのびたといわれる。
信玄は上田原の敗戦に続き、またも義清に苦杯をなめさせられるとは、まさに断腸の思いだったろう。
あきらかに信玄方の敗北なのだが、史書「甲陽軍鑑」ははっきり敗戦とせず、
「この合戦、信玄公の御代の無手際なる合戦なり」
と記している。
甲斐ではこの合戦を「砥石崩れ」と呼んだ。
かくして村上方は勝利をおさめたのが、なぜかその後の追撃は鈍く、真田本城も奪えぬままだった。
▼真田本城より霞に浮かぶ砥石城を望む
▼真田本城址
いや、それどころか翌年5月、なんと砥石城は真田幸隆の計略によって乗っ取られ、武田方の城となり、逆に義清は不利な状況に追いつめられていくのである。
※紙面版です
次の合戦は、妻籠城の合戦。